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責任について

小坂井敏晶さんの「責任という虚構」という本を読んだ。この本を通して、色々と気づきが得られた。

仕事をしていると、ほぼ全ての場面で「責任」が問われる。僕の仕事でも日常的にいわゆる「言った言わない問題」が生じるので、大切な伝達内容はメールなどの証拠文面を残して、相手に責任を投げつける。(言い方は良くないが、やってることはそういうことである)

責任はキャッチボールの如く、相手から自分へ。自分から相手へ。という投げ合いが繰り広げられる。最終的に何か問題が起きた時に、手元に責任を持っている人が爆撃を被る。

「責任という虚構」の中で、冤罪についての記述が印象的だった。我々は社会規範から逸脱した行為を罪と呼び、その行為をしたとされる人が罰が課せられる。その逸脱行動の責任の所在が正しく特定されることが、罪と罰の本質であると我々は認識している。

しかし実際のところは、我々が許容できないのは、逸脱行動そのものであり、もはやその責任の所在がどこにあるかはさしたる問題ではない。ある事件の犯人が捕まらないで迷宮入りするよりも、例え冤罪であっても形式的に犯人が特定されることに胸を撫で下ろす。

別に捜査や司法への批判をしたい訳ではないし、警察や裁判官の方々の仕事は我々の社会において、尊ばれるべきものだと思っている。ただ、上記のような本質がある以上、社会というシステムを維持していく為には、時にスケープゴート的な存在が必要となってくる。その意味で、冤罪を0にすることは不可能に近い所業である。

責任は、自由意志があって初めて成立するものである。何かに強制或いはやむを得ない事情を抱えてある行為を働き、責任問題が生じた場合には、その行為者は責任を全面的に負う必要はない。行為選択の余地が与えられ、その選択に応じた結果に応じて責任を負うというのが、一般的な通説である。

ただ、そもそも自由意志なんてものが存在するのだろうか。本書はそこに切り込んでいる。社会に存在する以上、外因からフリーになって選択出来ることなんて何一つない。外因というのは、関係者との人間関係によるものかもしれないし、自然環境的なものかもしれない。もはや、出自が違う以上、育ってきた環境云々も外因となりうるのだから、外因フリーの行動なんぞ有り得ないことである。

その意味で、責任は虚構の爆弾でしかない。ある問題が生じた際にその爆弾を形式的にどこかに爆発させることで片をつける。

ニュースを見ていると、毎日誰かが世間に対して頭を下げて謝罪をしている。勿論、不正や犯罪など社会的に不利益を生じさせているものに関しては、そのような謝罪は理解できる。

個人的に理解できないのは、芸能人の不倫などの謝罪である。まぁ不倫は道徳上問題があることは、承知しているが、有名人の○○が不倫したという行為により、僕は何一つ被害を被っていない。

世間の皆様に不愉快な思いをさせてしまったこと。という罪なのだろうか?それに対する責任の罰にしては、あまりに重すぎる。日本中のメディアに頭をたれる姿が日夜映し出されて、あぁスッキリしたなんて人が何人いるのだろうか。

少し話が逸れてしまったが、人生を大きく左右しかねない責任問題。勿論、責任を負わなければならない場面があることはよくよく理解しているつもりだ。

一方で、姿は見えないけど、社会にドーンと鎮座している責任は虚構にすぎないという知見を得たことで、少しは気持ちが楽になる気がする。

とはいえ「責任は虚構なんで、僕は知りましぇん」なんて仕事では言えないので、この知見は心の中で留めておくことにする。


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