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五感が素直に動くのは、実は雨の時だったりするじゃない。



天気の話から入るなんて何とも世間話みたいでいて、僕にとっては何より大切な話でもある。

ぐっと寒くなるこのくらいの季節には、いつも熱を意識してしまう。

ベッドに入るなり体温に呼応して布団が熱を帯びる。そのくせ少しでも足先がずれようもんなら、容赦なく質量は体を冷やそうと挑んでくる。こんな風物詩的な攻防に、自分の体がいかに暖かいのかを知る。

寒かったり雨だったり、体調が悪かったり飲みすぎたり、そういうどちらかといえば不快な瞬間に、もっともっと物理的な体の強さを感じるようになった。ごく最近だけれど。



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ほんの少ししか酔っぱらってないはずが(実際はかなり飲んでる)、翌朝目覚めると「はい終了」みたいなのは、かなり減った。

こりゃ明日きついんだろうなぁ、と思いながらベッドに入ってやっぱりきついAM5:20。それでも、25年経ってやっと自分の体を分かりはじめたことが嬉しい。全然気持ち悪いけれども。

活動時間が長かった日のベッドに横たわる瞬間は、内臓が元の位置に戻ってくるのを感じる。体から力が抜ける。重力と戦い続けた内臓たちの20時間に報いる幸福が、沈むベッドに溜まっていく。こいつらは全部自分だから一銭たりとも金は払っちゃいないけれど、こんなに幸福で良いのかと不安にもなる。(また朝を迎えることへの不安かもしれない)

この幸せな瞬間を忘れまいと必死にメモを取っているはずが、携帯にたどり着けずに意識が飛ぶ。





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全身が体温維持のために総動員される、寒さ、がたまらなく好きだ。

無意識に太陽の下に向かう足も、熱を逃がすまいと閉じてしまう掌も、いつのまにか垂れてきている鼻水も、暖かければ感じない自分の感覚の存在に、気付せてくれる。






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部屋で聞く雨音は、「今日は外に出なくても良いんだよ」と囁いていてくれてるみたいで、これもまた良い。

ぼけっとしながら買い物に行くシーンを思い浮かべると、雨の匂いがしてくる。買い物には行かない。

まだ14時なのに暗くなる空を見て、雲の上の快晴を想像する。

鍵を閉めようと伸ばした指先が露で湿る。

いつかの彼女が横にいる、車内の1シーンが蘇る。





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夜も深い時間に煙草をくわえて歩くと、昇る煙のあんまり綺麗なことに驚く。自分の肺がその機能を果たしすぎているから、かえって心配にもなる。

そうすると、まだ月があんな低いところにいる、なんてことにも意識が向いたりする。

周りに誰もいないことなんて当たり前に確認してるからさ。歩き煙草がダメなんて言わないでおいて。上っ面では生きやすい世界なんて、あってもしょうがないじゃない。





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最近自分が好きな写真の傾向に気が付いた。



子供、動植物、貧困。



この世界に生きてると、相対優位性こそが重要だと錯覚してしまう。あの人は頭が良い、お金を稼ぐ、学歴が高い、教養がある、楽しそう、悲しそう、優しい、優しくされている、恵まれている。不在よりも、偏在に鼻が利く。


「僕は持ってないのに。」




比べて子供、動植物、貧困は

意識が内向きで、嘘がない。繕えない。自分自身への愚直さという、絶対的な尺度がある。


意思に反して動き続ける心臓と、意識のままに動く手足の感覚を知って、ようやく分かった。



僕は多分、それが羨ましい。




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おわり

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