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ボーナス、お年玉、忘年会、格付けのテレビ、宝くじ、投資、BI、「きんいろ」の話題が多い年末年始に、お金のことをボーっと考える。


毎年大掃除の度に、大量の服やら、何に使うのか自分でも分からないモノが、amazonの段ボールから出たままの状態で悲しそうに横たわっているのを見つける。

容赦なくそれを捨てる。

モノとカネに支配されると、とてつもない虚無感に襲われる。


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それほどモノに執着しない自分でさえ、多くの「本当に必要でないモノ」を買っているんだなぁ、と、この季節に気が付くのが恒例行事である。


社会人になってボーナスたる仕組みの旨味を知ると、あたかもそれが、「偶然手に入ってしまった棚ボタ的な産物」かのような勘違いをしてしまう。そんなもの「ただの労働収入の分配」であることは言うまでもないのに。

問題はそんな「棚ボタ的な金を手に入れてしまった時の金の使い方」だ。


僕が買っているのは、「本当に必要なモノ」だろうか。


「自分へのご褒美」は、本当に僕を幸せにしているだろうか。


「金は時として命よりも重い」は絶対的である。有限の命を使って働いている。時としておかしくなりそうでも働いている。自分の命を犠牲にして、親は子供の養育費、学費を捻出する。

だからこそ、無責任な金の使い方をするのは命への冒涜である。


つい昨日、「芸能人格付けチェック」という人気番組を見ていて(結構毎年見てるのだけど)違和感を覚えた。100万円のワインと5000円のワインの違いを、多くの人は分からない。

いかに人が、「ブランド」「雰囲気」「人件費」「土地」「サービス」に金を使っていて、「自らの五感」を蔑ろにしてるのかが浮き彫りになる。

テーブルチャージだけで1000円かかる銀座の店でサイゼリアの400円のパスタが出たら、それに気が付くだろうか。(多分僕はサイゼが好きすぎてわかる)


「高価なモノに価値がない」と言いたいわけじゃない。

「価値は値段では測れない」はずじゃない?ってことなんだ。

価値を測れるのは、唯一自分の五感によってであるべきじゃないのか。

特別な日には雰囲気の良い、サービスの良いお店を選ぶことに何も問題はない。ただ、「お金をもっているから、ちょっと良いとこに行ってみようか」の「良いとこ」が「高いとこ」になっていないだろうか。

ということなんです。


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以下、番組内で全くミスをしないGACKTさんのコメント。

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確かにGACKTは「値段が高い」ワインや肉を沢山食べているかもしれない。

しかし、美味しいワインを飲むだけで、人は美味しいワインを見分けられるようにはならない。美味しい肉をいつも食べているであろう志村けんは、牛肉と豚肉の違いさえ分からない。

自分の身体に、五感に、お金に、GACKTは責任を持っていると思う。

高い、安い、うまい、まずいだけじゃない。


その1食に対して、1円に対して、どれだけ真剣に向き合えているか、ちゃんと考えないとなぁ、と思ったんです。

だから、例え金が入っても「絶対にこれがいるんだ」という意思を持ってモノを買いたいし、

値段が高い店は美味しいはずだ、食べログ評価が良いから美味しく感じる、という価値観でも生きたくない。

逆に言えば、安い店でも美味しいモノには恥じらいなく美味しいと言いたいし、美味しくない、という感情も大切にしなきゃいけないんだろうとも思う。


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自分は何が好きで、嫌いで、美味しくてまずくて、美しくて醜くて、嬉しくて悲しくてを本気で考えたら、忖度なんて絶対に出来ない。


でもまだ、何かを断るとかそういう次元に自分がいる訳じゃないのも分かってる。どうしたらいいのか。


少し前に幻冬舎の箕輪さんがその言葉を紹介していた石野卓球さんの言葉に、「自分に嘘をつくぐらいなら他人に嘘をつけ」というものがあった。




その中でもう一つ印象に残ったのが ↓

<結局、「断る/断らない」に正解はないんですよ。どっちでもいいんです。自分の頭で考えて、自分の中で筋を通せばいいだけ。「これは俺が断る/断らないと決めた」ことが大事なんです。つまりは「断らない」っていうことにすらも「企みを持つ」ってこと。>



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自分に嘘をついてる間に、本当の自分が何か分からなくなってくる。

気が付けば「社会の正論らしき何か」が自分の価値観になって、それらしくあるべきだと他人にも伝えてしまう。自分の哲学が未発達がゆえ、相対評価の中で自分を定義することをいつまでも止められない。


年収が高いのは結果論であって、それ自体に意味はない。お金を稼げるだけの何かを積み重ねてきたんだから。でも、折角積み上げたそのスキルだけで、人は幸せにはなれない。多分。自分との向き合い方が分かっていないと「金持ち=幸せ」の幻想からは抜け出せない。1000万貯金すれば、1億円資産を持てば、世界はもっと素晴らしいものになるか。

価値があるのは、その金を得るためにした努力の全てであって、額そのものではないんじゃないか。今ある金を、どうしたら最大限有効に使えるのか。今年はそういうことを考えたいなと思う。

はい、稼いでから言います。


宝くじの期待値は50%以下だし、競馬は60%、パチンコは80%くらい。

ギャンブルにもなってないじゃないか!

その割に株とかFXとか投資信託には何でか懐疑的な遺伝子。

非合理の合理は絶対に存在すると思うけど、思考停止の非合理はどうだろうか。


宝くじに行列をなす人を横目に、どんな幸せを求めてるんだろう。なんてぼーっと考える。


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前澤社長の10億円BI(ベーシックインカム)チャレンジがリツイートされているのを眺めて、100万円手に入れば彼らは幸せになるのかなぁ、と不安になる。

大金を手に入れた人がそれを失った時に「またそういう偶然があるのでは」と考えて宝くじの行列に並ぶんじゃないか。

そんな流れに乗ったずる賢い人たちが、適当にホラ吹いてフォロワーを稼ぎ、結局金なんて渡さずにアカウントをどこかの業者に売り渡す。

そんな淡すぎる期待感と無駄な喪失感を経験するなら、自分の好きな会社を徹底的に調べて株の一つでも買ってみる方が、よっぽど人生の期待値は高いじゃないか。

それでも、その僅かな希望にすがらなくてはいけない人は、どうしてこんなにも希望のない世界で生きていられるんだろうか。



だけど、そんなのはきっと、とんだ思い過ごしなんだ。



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だって僕たちは、60円のブタメンであんなに幸せになれる物質なんだよ。

部活で仲間と勝利を味わった試合後の、受験結果が良かった時の、超空腹で食べる卵かけご飯の、好きな人にやっと会える、あの瞬間より幸せな時なんてあったっけ。


だから今年はもっと、本質とやらに目を向けて生きていきたいのさ。



終盤何となく焦ってしまったけど、


結論:


サイゼ飲みこそ、この世で最も幸福度が高い。



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おわり


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