弱い握手
滅多に握手などしない。
ここ1年で恐らく3,4回ほどしかしなかったろう。
その中に、弱い握手のかたが何人かいて、
その身を案じたりもしていた。
うまく言葉が見つからない。
しかし音はあくまでアグレッシブで、ひたすら求道的なまでに強く、揺さぶるように、囁くようにひびき、
その音があの弱い手から紡ぎだされていたその、余程の気力と、
意思と、
うまく言葉が見つからない。
何かとても、極端な世界を行き来しているな。
ああいうかたがたにとってみれば、私など微温湯暮らしの何も残らない人生の上を唯ふらふらと、歩んでいるだけのように見えるんだろう。それは感じていた。
しかしこれほど実感したことはない。
もう個人的に人生のクリティカルな判断を色々と下し始めている、私にとってこの邂逅は少しの間だったけれど、
忘れられぬ感慨とともに、
己の生き様を見直す重いきっかけをくれた。
それがもうあれきり遂に聴けなかった私への、あのひとからの最後のプレゼントだったのか。
うまくまとまらない。こんな時間に、こんなニュースを、しかも間接的に知るというのは、とても重く、悲しい。素直に悲しい。
求道者でも何でもない、一方的なひどい終わり方だけは共感できないし、あとの混乱についても迷惑はおろか、京都まで、鳥辺野まで行ってどこにいるのかすらわからず、送り火だけを見て帰ったことも、それは考えてみれば自分のために必要な旅だった、それだけにすぎない。残された傷は傷のままだ。悲しい。
しかし悲しんで呉れるな、と言うだろう。
遺されたものをもう一度聴こう。
それが一番の。。
2006/6/7
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