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日本酒とテロワール

先日、こんな本を買いました。

主に日本酒とワイン(棚橋美知子さんが仏語和訳をされています)の方面から、広く論考を募った論叢というべきでしょうか。

まだ全ての論考を読めていないので、全体を通しての感想はここでは取り上げません。個人的に気になった二コラ・ボーメール (Nicolas BAUMERT) 先生の「飲料の製造、飲み方と文化 -例外としての日本酒?」という論考についてのみ取り上げたいと思います。

形式としては、書評というより、いつもの読書感想文に近いです。

が、かなり詳細なネタバレがありますので、苦手な方は先に本を購入することをお勧めします。

タイトルにつきまして、訳前の文章は載っていないのですが、さしずめ "La production, maniere, et la culture du boisson - Sake, une exception? " といったところでしょうか。拙訳で申し訳ないのですが、このタイトルの付け方からして、フランス語を昔少しばかり齧った自分は「フランス語ならではの、多分に哲学的なエッセイ構成がくるぞ」と構えてしまうものです。

本論考の構成ですが、

はじめに
1.土地への定着
2.日本文化の表れとしての酒とその矛盾
3.アイデンティティを保証する飲み物が地理的特性を重視するようになった特殊な道筋
4.日本酒にテロワールは存在しうるか?
おわりに

というものになっています。途中途中刺激的なワードがありますね。ひとつずつ追ってみましょう。

はじめに、の前に(テロワールって?)

ご存じの方はこの項読み飛ばしていただいて構いません。自分の中で議論の整理のために設けた項になります。

タイトルからは少し離れますが、テロワール(仏terroir)とは何でしょうか?

フランス語版の広辞苑といってよいLaRousseのオンライン版にあたると、以下のような説明が出てきます。括弧内は筆者の抄訳です。

①Ensemble des terres exploitées par les habitants d'un village.
(村の住民によって使用されている土地のこと)
②Ensemble des terres d'une région, considérées du point de vue de leurs aptitudes agricoles et fournissant un ou plusieurs produits caractéristiques, par exemple un vin.
ある特定の地域内で、農耕適性を持ち、かつ、ワインなどの特徴的な産物を産出する土地のこと
③Province, campagne considérées comme le refuge d'habitudes, de goûts typiquement ruraux ou régionaux : Un écrivain du terroir.
(田舎、すなわちその土地で特徴的な習慣や風味を持つ地方のこと。例:テロワールの物書き(作家の作品に地域性が色濃く反映される))

よく日本で「テロワール」というというのは主に②の意味ですね。「風土」「気候」と訳されることがおおいようです(当方ワインは全くの素人なので、伝聞体での記載となること、おゆるし下さい)

上の記事の中で「テロワール」は以下のような特徴があるとされます。

ワインの世界では「テロワールTerroir」というフランス語がよく聞かれます。この言葉を辞書でひくと「風土の、土地の個性の」と記されていますが、もっと身近な言葉でいえば「ブドウ樹をとりまく環境すべて」ということができるでしょう。
その中には気候タイプ(年間を通じて乾いているのか、雨が多いのか等)もあれば、土壌の個性(砂利質土壌もしくは肥沃な土壌なのか等)、地形の特徴(斜面なのか平地なのか等)ということがあげられます。
このテロワールは国といった大きなレベルで語られることもありますが、地方や地区という比較的小さめのレベルでとらえられることもあります。極端に細かいレベルでは畑でテロワールの違いを語る専門家も中にはいるほどです。

ポイントは地理的な要素(気候・土壌・地形)などのようですね。この点を踏まえて(フランス人からするとこんなことは当たり前なようですが、私には知らないことばかりなので、少し紙幅を割きました)本論に戻ります。

はじめに

ということで。あらためて。

ワインと日本酒、何が違うか、端的にいくつかの点で説明されています。ここで注意しなければならないのがあくまで「ワインの世界」から見て「日本酒の世界」がいかに「例外」なのか、というトーンで書かれていることです。

ポイントはいくつかあるそうです。

日本酒は主食である米から作られる点、そして蒸留酒文化が大きく発展しなかった点(ここは個人的に粕取焼酎はじめ焼酎文化を考えるとツッコミどころ満載ですが、蒸留酒文化は中世~近世にかけて蒸留技術と併せて流入したといわれるので、その点をもってフォローとしたいと思います)

日本酒における飲酒が儀礼や社会的機能をもち、コミュニケーションの手段とされる点が特殊(繰り返しになりますが、ワインと日本酒の比較です)

アイデンティティ上の重要性を持ちながら、若い世代に適応できていないという困難を抱えている点が例外的
現代フランスでは若者がワイン離れを起こしているという指摘もある中で、ワインはこの問題を抱えていないのか?ともツッコミたくなりますが、ここでは深入りしません)

1.土地への定着

「定着」って、なんでしょうか。読み進めてみましょう。

ここでは日本酒のイメージとして「山」と「水田風景」という自然から生み出される「米の耕作」が提示されます。「水田風景」および「耕作」は「自然」たいしての「文化」というAugustin Berqueの指摘を受けたうえで、ワインが持つ「キリスト教の枠内での神との関係(キリストの血)」よりも、日本酒は日本の「自然」「文化」と切っても切れない点でより国民と強いつながりを持っている、という主張がなされます。

また、原料から想起されるイメージも、ブドウはブドウそのものと土地の生産性に限定されるのに対し、日本酒は米(それは自然と文化の両方を含むもの)ゆえに、より土地と密接に結びついている、と論考が進みます。


日本酒は自然と文化の両面から風土と結びついているがために、ワインと比較して時に、より強い土地(原語はterroirかterreなのかわかりませんがおそらく後者でしょうか)との定着がみられる、という点が本章の要点といえそうです。

2.日本文化の表れとしての酒とその矛盾

どういったところが「矛盾」なのでしょうか。読み解いていきましょう。

ここでは日本文化が周辺の文化から影響をうけつつ(例えばお酒に薬味を混ぜるお屠蘇は台湾・フィリピンにもみられ、神道におけるお酒の扱いはシベリア系のシャーマニズムの影響を受けているそうです)、それを統合し独自に適応しているさせているということを指摘しています。そのうえで、日本という枠の中で洗練され続けた日本酒がなかなか世界に広まらない理由を以下の通り書いています。

 文化的産品の輸出の成功の裏には、つねに文化的・商業的な大規模な政策があることも忘れてはならない。これこそが日本の多くの伝統的製造物に決定的にかけている要素である。
 ここから、しばしばよく知られておらず、うまく理解されていないという日本文化のアイデンティティ、つまり不理解ゆえに日本人が独自性を感じるという逆説的ともいえる日本の文化的アイデンティティが生ずる。
(太字は当方)


いわゆる「日本文化論」の陥穽を見事に指摘したところだと感じました。
日本酒に限らず、「日本は特殊だから」という、ある種の島国根性が日本文化の原点にあるというのは省みるべき点でしょう。裏を返せば「日本文化は特殊だから独特なんだ」というトートロジーでしかない、という矛盾は耳に痛いながらも、我々は傾聴するべき点ではないでしょうか。

3.アイデンティティを保証する飲み物が地理的特性を重視するようになった特殊な道筋

どういうところが「特殊」なのでしょうか。引き続き読み進めます。

ここではワインと日本酒の共通点および相違点が述べられます。それぞれ見ていきましょう。

まずは共通点。
ワインはキリストの血という宗教的位置づけを持つとともに、労働の対価という位置づけを持つのに対し、日本酒は神様に捧げる飲み物(映画『君の名は』で有名になった口噛み酒などが有名ですね)であると同時に稲作の恵みという位置づけを持っています。なんだか似ていますね。また、こうした性質上、国王や貴族などから徐々に庶民に広まっていく、というのも相通ずる部分があります。

続いて相違点。
西洋地中海世界(ローマ帝国を中心とした地域をイメージしてください)ではワインと主食である小麦(パン・パスタなど)は相補的関係にあります(食事においても、キリストの血と肉という宗教的理由においても)。そうした意味では、ワインは主食と不可分です。
これに対し、ご飯(米飯)と日本酒は競合的な関係にあります。肴(酒菜)とおかず(飯菜)が実は同じものではないか、という研究は石毛直道氏あたりがされていた記憶があります(手元に文献がないので曖昧です)。実際ご飯(お米)を食べながらお酒も飲む、というシチュエーションはあまりなさそうですね。

そうすると、以下で述べられる違いに集約されていきます。

ワインは食中酒として食事の一部だが、日本酒は異なる少量の料理がその味を引き立てる飲食行為の主役なのだ。

こ結果、ワインは国際的に広まった一方で、日本酒の広まりは限定的なものにとどまっていると指摘がなされたうえで、ワインも日本酒も国際競争という状況の中で、テロワールに活路を求めている、という論理の進行が行われます。

ただ、ここでいうテロワールは、上述したような地理的な要因だけではなく、文化的な要素も加味したものとなります。


うーん、何度か精読しないと難しいなと感じました。というのも、1.にて日本酒はワインに比べて「自然」「文化」の両面でより土地に根ざしていると述べているのにも関わらず、ここで「テロワール」という次元に落とし込んでいるのに違和感を覚えたからです。ただ、最初(冒頭のテロワールって?の項参照)の通り、「テロワール」という言葉が「自然」に限定された言葉として用いられていないことは留意すべきでしょう。

4.日本酒のテロワールは存在しうるか?

ここでは、AOCが設定されるに至った経緯(二十世紀初頭フランスでのワイン生産者と卸売業者の対立)を踏まえたうえで、日本においても原産地保護呼称の方向へと向かうのではないかとみています。(下記リンクは参考)

※参考文献が2010年度前半と、日本版AOCともいわれるGIが制定される前の論考になり、時間的なずれがあるのはここで補足しておきます。

他方で、日本酒の場合、原料である米が輸送可能であるという点から、ブドウのような地理的原産地呼称とはならないのではないか、という指摘もなされます(現在もこの点は「テロワール」という言葉の使用についての議論の中であげられる論点だと個人的には思います)

日本酒の場合、原産地呼称は近代以前に古くは伊丹・池田、おって灘の下り酒にみられる、ブランドという形ですでに存在していた、という指摘もなされます。実際そうしたブランドを騙った贋酒も存在していました。

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(「日本山海名産図会」より、当時の伊丹・池田のブランドのいくつか)

ここから筆者は以下のような指摘をします。

先端技術を駆使した大手酒造メーカーは、そのメーカーが立地する地域名称ではなく、ブランド名で商品である日本酒の品質を保証したのである。日本酒の生産地の地域表示が生産者としてのブランド製に対して優位になるという現在一部で進行しつつある逆転現象は、日本酒の原産地表示の問題をあらためて議論の中心にすえようとしている。そのとき、日本酒の潜在的なテロワールがはじめて議論の対象となるだろう。

そのうえで、2015年時点でのGIに日本酒が含まれていないことをふまえ、国際的な保護が脆弱として本項を締めくくっています(註:この後日本酒自体がGI対象となり、日欧EPAも2019年に発効)。


読んでみて

おわりに、はまとめに近い内容なので、このnoteでは割愛します。全体を通してみた印象ですが、内容と関係ないところでは「原語でも読んでみたいな」というのがあります。翻訳はもともとの論考に対して非常に忠実ですし、正確で誠実な訳なのだろうというのが伝わる一方で、本論考のもつ微妙なニュアンスが訳によって逆に伝わりづらくなった、そんな印象も受けました。

勿論、フランス語におけるエッセーという形式(彼らは高校生からこの書式で物書きをするので、このスタイルが血肉となっています)というのが非常に独特で読みなれていないとわかりづらいということも否定できません。であればこそ、多少の意訳、および日本語の文脈理解に合わせた訳も必要なのかもしれないと感じました。

続いてテロワールについて。

テロワールというと、私は咄嗟に山口県宇部市の永山本家酒造(代表銘柄:「貴」)が、永山社長(通称ゴリさん)とセットで出てきます。個人的にはゴリさん大好きです。貴も旨い。

それとは別に、「テロワール」という外来語をどう使うかについては議論が分かれており、私自身も判断が難しい問題だと思っています。

永山社長はかなり意識的に「テロワール」という言葉を定義付けているのに対し、新しい言葉を導入しようというレベルの認識で「テロワール」を使用している酒蔵さんも見受けられ(決して永山本家さん以外全てがそうだという意味ではありません)、「テロワール」に対する認識がばらばらに見えてしまう、そんな印象も受けます。

かたや、日本酒とは位置づけの異なるワインの世界からやってきた外来語をそのまま使用し、ワインの枠組みに閉じ込めることで、日本酒がワイン(特に白ワイン)の亜種になってしまうのではないか、という論考もあります。一橋大学の都留名誉教授の著作にそうした議論が一部見られますし(正確にはテロワールをめぐる議論ではありませんが)、こちらはこちらで正鵠を得た指摘ではないかとも思います。

個人的な見解をここで述べさせていただくのであれば、対国内と対海外で言葉を使い分けてもいいのではないかなと思います。日本語を大切にしたいというベースがあるうえで、かといって「Fu-do」とか「Tochigara」といっても、海外には伝わらないのではないでしょうか。日本語に該当するものが何か、ちょっとここは検討が必要なのかもしれません。

ここまでは語用にまつわる話でした。では、日本酒に「テロワール」は存在するのか?最後にこの点について私の見解を述べて、この記事を締めたいと思います。

端的に言えば、日本酒にテロワールは存在するが、日本酒はそれに縛られない、というのが私の考え方です。ここでいうテロワールとは、一般的な「自然条件」としての「テロワール」だけではなく、本論考が示した「文化的要件」も含めたものと考えてください。

確かに原料米は移動が可能ですが、お酒を作るうえではお米のみならず、大量の水(長距離の運搬は難しく、酒蔵は水場を選ぶことが多い)、および気候が大きな影響を与えます。もちろん多くの要素が絡むため、製造者の腕一本で調整ができるのも日本酒の大きな魅力ながら、蔵付き酵母を使用している場合、当然蔵によって大きく味が変わります。いくつか蔵を見学する中で、多くのお蔵さんが「水」の重要性を語るのはいつも印象に残っています(うちの酒は〇〇山系の伏流水を使っている、とか、〇〇山系の水の井戸水を使っている、とか等々)。

他方で、「日本酒はテロワールに縛られるものではない」とも思います。これは日本酒の構成要素が多いからこそ可能なことであり、米の選択・精米方法・麹の作り方、酒母の立て方、仕込みの方法などによって無限に可能性が広がるからです。お酒を醸す人もまた然り。製造責任者である杜氏が移籍すると、移籍先の蔵の酒の味が「その杜氏の味になる」といわれることも珍しくありません。私は製造に関して素人のため、これ以上細かいところまで突き詰められませんが、そういった「自由さ」が、また日本酒の良さだと思っています。

テロワールを縛りとしてとらえるのではなく、飛び出すこともできる器として考えることで、「テロワール」(あるいはそれに相当する日本語)という概念をもっと有効に日本酒に結び付けられるのかもしれません。

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