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「趣味は読書です」って言えばいいじゃん

言えない。全然嗜んでない。

読書は好きかと聞かれると、自信を持ってYES!とは答えられない。

文学作品は挑戦しようとするけど、いつも見事に積まれたままだし。話題の小説も途中まで読んで止まっているし。

図書室や図書館は好きだけど、「どんな人がいるか」が気になって、自分より読書が好きそうな人がいるとなんとなく引け目を感じる。

読書って言葉のストライクゾーンが広すぎる。

”まるで自分が一番じゃ無いと駄々をこねる子供じゃあるまいし”と思いながら、実際はそこから脱却できていないだけかもなとも思う。

一方で、それは向上心という自分の最大の個性の副作用であるような気もしている。

読書にしろ、音楽にしろ、好きに優劣はないし、上下なんてないと思うけど、どうにも無意識に知識量や経験値を基準にしてしまっている。

だってプロじゃないし。みたいな。

そんなこと言ったら、本が好きならみんな作家や編集者になるんですかー?プロの読書家ってなんですかー?なんて子供の喧嘩みたいなことをぐるぐると考えた挙句に、後には何の生産性もないただの疲労感だけが残る。

結局のところ趣味って何だ?

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本は好きだと思う。

そう、読書というより本が好きなのかもしれない。あの小さな紙の束の中にたくさんの「知性」が詰め込まれている。当たり前すぎて素通りしてしまうが、本は情報が形になっている素晴らしいもので、なんというか人間を人間たらしめている一つの重大な因子のような気がする。

それを手放してはいけないような。

『知識は知恵にしなさい』

そう教えられ、教えてきたけど、待てよ。知識だってコレクションしたっていいじゃない。音楽を浴びるように、本に囲まれ、知性を浴びることで落ち着くんだわ。いや、それよりも「読書は脳の全身運動」っていう、この前、読んだ本の表現の方がしっくりくるかもしれない。足りないと、ある種の運動不足のような不快感に似たものを感じる。

運動不足解消のために運動する人を捕まえて、なんで運動してるんですか?運動好きなんですか?と聞くようなものだ。

別に良いじゃん。運動の動機なんて人の数だけあっていいし、そもそもそのために進化してきたわけで、本能的な機能そのものなんだから。

そうなると、この思考回路は相変わらずただの自意識の暴走という終着点に行き着く。

『誰もあんたと比べちゃいないよ』

別に、好きでこんなこと考えちゃいないんだけどね。

これも読書によって鍛え上げた俯瞰力の副作用だと思いたい。

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勉強は好きかと聞かれると、間違いなく「Yes!(テストはF×ck!)」と答えられる。

テストが100点で褒められたのは小学校時代で止まっているような気がする。中学以降は授業で先生の話を聞きながら、頭の中で脱線しては本筋に戻り、脱線しては”あれ、今どこやってるんだっけ?”を繰り返していた。

大人になってテストから解放されて、ようやく勉強が好きと言って良いんだと思えた気がする。

集中すると目の前のことにガッとのめり込むくせに、物事をじっくりゆっくり考える方が得意なのだと思う。

勉強なんて、なおさら上には上がいるわけで、壁にぶち当たるたびに「やり直してー」なんて毎回コンプレックスの壁にぶち当たる。

でも、好きと言い切れる。

同僚にストイックと言われるがストイックではない。ただ合理的なだけで、自分にとっての損得勘定でいつも動いている。

学ぶ方が単純に得だ。

学んだ方が自由に近づける気がする。

読書よりも、内省の方が趣味と言える気がする。

ほら、趣味って何よ?

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さて、タイトルを回収する。

読書は趣味か。

私にとっては趣味かもしれない。
本が好きだし、それを読む事も好き。

自己啓発本しか読まない時期があれば、難しい本を読んだり、フィクションが読みたくなる時期がある。この辺は音楽の聞き方に似ている気がする。ブームなのか、興味の移り変わりが激しいのか。

ただ、趣味と言われるとなんとなくハードルが高いし、趣味よりはもう少し呼吸や食事に近い気がする。

せっかく人間に生まれてきたから、進化したいのだ。そのための手段でもある。

そもそも趣味って言葉なんなんだよっていつも思う。

「好きなことは何ですか?」でいいだろ!

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