自分だけのかけがえのない人生を生きること。
八坂神社へ初詣に訪れる人達で溢れかえる、元旦の祇園。
そんな祇園から南に10分程歩くと、突然大きなお寺がある。
門をくぐると、まるで何百年も昔にタイムスリップしたかのような、
異世界が広がっていた。
さっきまで聞こえていた都会の騒音が消え、
そこにあるのは、鳥の鳴き声と風で揺れる葉っぱの音だけ。
僕の2022年は、この場所での座禅から始まった。
以前から「禅」というものに興味があり、その入り口として、
禅寺で坐禅体験をすることにした。
なぜ僕が「禅」に興味を持ったのかと言うと、
禅というのは、自分自身だからだ。
この世界にはたくさんの宗教が存在する。
その宗教たちに共通していることは、神だ。
神の教えに従うことで、救われる。
神の思想に従いながら生きる。
こうやって人間は、たくさんの場面で宗教に助けられながら
今日まで生きてきた。
でも、ここまで宗教が浸透した2022年の世界に生きる僕たちは、
もう生きることについて悩まなくなったのだろうか。
少なくとも、僕はいまだに悩む。
人生とはなんだろう、自分とはなんだろう、生きるとはどういうことなのだろう、自分はこの人生で何をすべきなのかと。
僕は悩んでいるけれど、その答えを知っているのは、
神ではないような気がする。
じゃあ誰がその答えを知っているのか。
自分自身だ。
「禅」は、神や教祖の教えを信じるものではなく、
徹底的に自分自身を見つめることだということを僕は去年知った。
だからこそ、今回こうやって禅寺に訪れ、座禅をしてみたのだ。
1時間ほどの座禅で、何か特別な体験ができたわけではないけれど、
自分の中の何かが変わったのか、その日から今日まで、毎日瞑想を行うようになった。
何をするにしても同じことだけど、知識を学び、身体で覚えることで、
本当のことが分かる。
いくらそのことについて勉強したとしても、実践し、身体で感じなければ、
何も分かっていないのと同じだと、僕は思う。
「禅」というものを体得できるかはまだ分からないけれど、これからもっと学び、実践し、生きていくための支えになればなと思う。
情報化社会になり、世の中には情報が溢れている。
スマホを開けば、そこには無限の世界が広がっている。
何気なく見たSNSからどんどんインターネットの沼にハマり、
気づけば1時間が経ってしまっていたという経験は、誰もがしたことある経験だろう。
そしてその1時間は、ただ無駄にしてしまった1時間ではない。
たくさんの不安を煽られ、色々な正解を教え込まれ、その結果、自分自身が何なのかを見失ってしまう1時間になっている。
その不安に寄り添った商品やサービスが気づけば自分のスマホに表示されるようになり、気づけばそれを購入している。
そして、何を得ることもなく、また悩み、正解を探しにインターネットの世界に彷徨い続ける。
たった一度の人生を、かけがえのない自分だけの人生を、そのように使って後悔しないだろうか。本当にそんな人生で良かったと思えるのだろうか。
名前も顔も知らない誰に、自分の大事な人生の時間を奪われていて嫌にならないだろうか。
僕はそんな人生は嫌だ。
自分だけの人生なのだから、自分だけは納得したいと思っている。
好奇心旺盛な僕は、今まで色んなことに振り回されてきた。
そして未熟な僕は、これからも色々なものに振り回されてしまうかもしれない。
でもそんなときに、自分自身を見つめ直す手段として、
「禅」を体得したいと思う。
自分の外側で起こっていることは、自分の内側とは関係ないことだということは、座禅をしている最中に気づいたことだ。
周りからなんと言われようと、
僕は自分の中心にあるものに従って生きていきたい。
それがたとえ自分にとって不幸を招くことであったとしても。
なぜなら自分自身に従うことでしか、自分だけのかけがえのない人生を
生きることができないと思うからだ。
もし誰かに言われた正解に向かって人生を歩むとしたら、
それは自分の人生とは言わないのかもしれない。
あなたはどんな人生を歩みたいですか?
あなたはこの人生で何をしたいですか?
あなたは何を大切にして生きていきたいですか?
あなたにとって生きるとはどういうことですか?
全ての答えは、自分自身の中にあるのかもしれない。
未来に希望を持って、僕はその答えを探し続けたいと思います。
Ryoma Kobayashi
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