孤独について。〜孤独からの逃走〜
僕は、人間は皆「孤独」だと思っている。
思っているというよりも、感覚的に知っていると言ったほうが正しい表現になるかもしれない。
これを読んでくれた方も人間は孤独だと知っていると、僕は思っている。
皆、「人間は孤独だ」と思いながら、その孤独から解放される為に
あれこれ考えながら生きている。
勉強、遊び、スポーツ、仕事、趣味、創作活動、
これらのような活動をすることによって、その瞬間だけは孤独を感じないですむ。
でも、一瞬でも気を抜いてしまうと、孤独を感じてしまう。
人間の生というものは、孤独がベースにあると僕は思っている。
だから何もしないでいると孤独を感じてしまうのだ。
孤独を感じないようにする為に、大多数の人間が行うことは、
誰かと会うことだ。
友達や、同僚や、家族と会い、色々なことについて話しをし、
ときには議論し合い、ときには励まし合い、ときには笑い合い、
ときには、共感し合う。
この共感し合うとき、その共感し合った人間達はなんとも言えない心地良さを感じる。僕だって誰かと何かの物事に対して共感し合ったとき、
とても嬉しく思う。でもよく考えてみてほしい。
例えば、あるカップルがハワイ旅行に行ったときの記憶を思い出しながら、「あのビーチはとてもきれいだったよね」と、二人で同じ瞬間の記憶に浸る。その瞬間は二人だけの世界であり、その排他的な世界を二人で共感し合っていて、とても心地が良い。
でもその記憶は本当に二人の間で共感し合えているのだろうか。
僕は、たとえ二人が同じ場所で同じものを食べながら同じものを見ていたとしても、絶対に共感し合えるとは思わない。
それはなぜかと言うと、二人がその瞬間に感じることが必ず違うからだ。
彼氏はその綺麗な景色を眺めながら、帰国後の仕事について考えているかもしれない。彼女の方は、彼氏とハワイのビーチでのんびりするという夢が叶い、そのことに浸っているかもしれない。
その瞬間に感じることがお互い違うということは、その瞬間が記憶になったときも、それはお互い違う記憶になるということだ。だから、たとえ二人が同じ場所で同じものを食べ同じものを見ていたとしても、それが二人の間で完全に同じ記憶になり、その記憶について完全に共感し合うことなんて不可能なのである。
こう考えると人間はやはり孤独だ。
まぁこんなことを考えなければ、孤独だと思う瞬間は随分と少なくなるのかもしれないが、僕はそういったことをどうしても無視することができない。
でも僕は孤独が悪いことだとは全く思わない。
もう少し細かく言うと、自分が孤独であるということに、
自分自身がどう思うかが問題であって、孤独であるという状態には、
良いも悪いもない。
孤独が悪いことではないと言ったが、僕は別に好んで孤独になりたいわけでもない。どちらかというと、孤独はあまり感じたくないほうかもしれない。
でも物事というのは、表があれば裏もある。
だから孤独を感じるからこそ孤独じゃない瞬間を味わうことができ、それは全てのことに対して言え、
喜びを感じたければ悲しみも感じなければならないし、楽しさを感じたいのであれば、楽しくないも感じる必要があるのだ。
そういう点で言うと、僕は孤独じゃない瞬間を味わう為に孤独を味わっていて、自分で自分を孤独である状態にしていると同時に、孤独でない状態にもしていることになる。
だから人間は孤独であるということは、人間は孤独ではないということでもあるのかもしれない。
どうすれば共感し合えない人間達しか存在しないこの地球上で、孤独を感じずに生きていくことができるのか。
孤独じゃないを感じる為には孤独を感じる必要があり、喜びを感じたければ悲しみを感じる必要があるというのは、概念の話しであり、孤独を感じると同時に孤独ではないことを感じるということではない。
孤独ではないと感じる為には、そう感じることができる瞬間に自分がいなければいけなくて、その瞬間に自分を持っていきたければ、それは自分の行動次第だということになる。
では何をすれば孤独ではないを感じることができるのだろうか。
それは、「誰かの為に生きること」だと僕は思う。
ここで一つだけ言っておきたいことは、自分の物事に対する考え方、捉え方というのは、常に変化していて、今日の時点での答えが明日になれば全く違う答えになっているということもありゆる。
だから今回書く「孤独」についてと、いつの日か書くかもしれない「孤独」についての内容は当然違う内容になっていて、それは自分が言うことに対して一貫性がないとか責任がないということではなく、それを「成長」と呼び、また、そうでなければいけないと僕は思っている。
少し話しが逸れてしまったが、「誰かの為に生きること」が、
自分を孤独ではない状態にするということについて説明しようと思う。
誰かの為に生きるということは、誰かに何かしらの影響を与えるということであり、誰かに影響を与えたときにだけ、自分という人間がこの世に存在していることになると僕は思う。
少し難しいのだが、頑張って説明したい。
またこれも概念の話しになってしまうのだが、少し想像していただきたい。
例えば、地球にただひとりだけ自分がいるとする。自分以外には誰もいない。そんな地球に自分がいるとしたら、自分が存在しているということはどうやって分かるのだろうか。
例えば、その辺に生えている草をちぎったら、それは地球に対して何かしらの影響を与えていることになるから、その瞬間に自分は存在しているということになる。でもここで間違ってはいけないことがあり、
それは、自分が存在しているということは、生やした草をちぎられてしまった地球から見て存在しており、もし仮に地球に心があるとしたらその地球の心の中に自分が存在していることになり、それ以外に自分は存在していない。自分が存在していないということは、まわりにあるものと関わることができていないということと、まわりから疎外されているということでもあり、これを「孤独」と呼ぶのではないだろうか。僕はそう思う。
だから「誰かの為に生きる」ということは、
誰かに何かしらの影響(為に生きることは良い影響を与えるということ)
を与えることであり、影響を与えることによって、その与えられた相手の中に自分という人間は存在し、その瞬間に自分が存在することになる。
自分が存在するということは、まわりと関わることができていて、まわりから疎外されていないということでもある。
多くの人々の心のなかに自分が存在している状態というのは、
それだけ多くの人々に影響を与えることができているということであって、
それは誰かの為に生きている状態なのだ。
そしてその状態こそが、「孤独ではない」ことなのだと僕は思う。
孤独は決して悪いものではないと思うが、人間は必ず誰かの助けを必要とし、また誰かの助けにこたえ、生きていかなければならない。
それは、助け合い、協力することによって大きな力を手にし、力では敵わなかったネアンデルタール人を絶滅させたという、僕たちホモサピエンスの歴史が答えを出してくれている。
だからもしかすると、「孤独」とは僕たち人間が生きていくにあたっては
弱さであるのかもしれないが、一方で、その孤独を味わう人間から生まれる、「孤独からの逃走」いわゆる、共存や協力、誰かの為に生きたいという願望が僕たち人間を成長させ、その成長がまた誰かに影響を与えることによって、地球全体が成長していくのかもしれない。
人生という孤独な道をどう歩んでいくかは、自分で決める必要がある。
僕はこの孤独な人生の目的を、誰かの為に生きることに使いたいと思う。
それは多くの人々の心の中に自分を存在させることであり、孤独からの逃走であり、孤独な人生を受け入れた人間の生き方であると、僕は思う。
Ryoma Kobayashi
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