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100日後に年越すオレ 83日目「ふ:ファイプロ(ファイヤープロレスリング)」

”いろは順”エッセイの三十二日目、本日は”ふ”です。

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"ふ”で選んだ題材は、「ファイプロ(ファイヤープロレスリング)」。僕の人生の中で最も遊んでいるゲームの一つです。というわけで簡単にファイプロの歴史と、それにリンクした僕の思い出から語りましょうか。

「ファイヤープロレスリング」、通称ファイプロは、名前の通りプロレスゲームで、その中では歴史も実績もNo.1のゲーム。今は亡きゲームメーカー”HUMAN”の作品で、一番初めに出たのはPCエンジンで1989年のこと。僕はというと、恐らく1991年くらい?に友達の家でPCエンジン版で遊んだのが最初でした。

当時のゲームはファミコンが主流で、中でも対戦ゲームとしては野球ゲームのファミスタ(ファミリースタジアム)が大人気。僕もファミスタはかなりやり込んだ口でしたが、いつの間にかファイプロにも夢中になっていました。そして気付けばスーパーファミコンで発売になった「スーパーファイヤープロレスリング」を購入。ゲーム内でモチーフとなったレスラー達のことを知るために、当時はネットなんて無かったので、親に頼んだり自分のお小遣いでプロレス本やプロレス雑誌を購入しては、偏ったプロレス知識を蓄えていったんですよね。

当時沖縄ではプロレス中継はほとんどしていなくて、唯一見ることが出来たのって、有線放送での全日本プロレス中継。しかも深夜放送だったり。なので小学三年生頃の僕は、有線放送を契約している同級生の家に居座って、毎週のように全日本プロレスを見てたりしたんです。当時はちょうど超世代軍vs鶴田軍団、三沢光晴vsスタン・ハンセンの頃でした。
ちなみに僕の祖父はプロレスファンで、ずっと新日本プロレスを追っかけていて、祖父の家に遊びに行ったときには良く録画した試合を見せて貰ってました。沖縄でのワールドプロレスリング(新日本プロレス)の中継は、1992年で実は一度打ち切りになってたんですよね。僕は獣神サンダーライガーのことが大好きになっていたんですが、打ち切り以降は見たくても見られない状況だったということです。

少し話はそれましたが、そんな頃から遊び続けているファイプロの魅力って、まずはファミスタのように実在の選手の名前を微妙に変えて登場させているところなんですね。例えば当時の二大スターであるジャイアント馬場はグレート司馬、アントニオ猪木はビクトリー武蔵。あとは前田日明は冴羽明に獣神サンダーライガーはスーパーカイザーなど。その絶妙に変えたリングネームと、逆にそのまんまな顔グラフィックにニヤニヤしつつ、自分の好きなキャラを使って友人たちと対戦をしてたわけです。


その後もシリーズは続いていき、初代プレイステーションで1999年に発売された「ファイヤープロレスリングG」で、ある種の完結を迎えます。というのもメーカーであるHUMANが倒産してしまったんですね・・・。これまでに追加レスラーや追加技、レスラータイプやルールなどなど様々な発展をしてきたファイプロシリーズですが、ある意味この作品がひとまずのラストのようなもの。その後は版権を得たゲームメーカー”スパイク”が開発を続けて今に至るのですが、PCエンジンからの系譜は、個人的にはこの「ファイプロG」までのような気がします。

このファイプロGには面白い機能が追加されていまして、それが「エディットランキング」というモード。これは自分で作ったエディットレスラー(つまりは架空レスラー)をCPU任せ、つまり自分では動かさずにコンピュータ側に操作して戦ってもらうというもの。後に”ロジック戦”と呼ばれるファイプロの嗜み方を公式に認められたのがこの作品だったということでしょうか。ちなみにおまけ要素として、そのエディットレスラーを強くするポイントのようなものを獲得するために、当時プレステの周辺機器として販売されていた「ポケットステーション」という”たまごっち”のような小さい機器を使ったトレーニングというのも、高校に持ち込んでは授業の合間にやっていた気がします。

そしてこのゲームにハマっていた僕は、上京した大学の軽音楽部で同志たちに会うことになるのです。その縁というのが20年経った今でも続いているのが、このファイプロの面白い所です。

どういう流れでそうなったのか、当事者の誰も記憶にないんですが、2つ上の先輩たちとファイプロの話になり、じゃあ皆で遊ぼうということで、とある先輩(当時の部長)の家に遊びに行ったのがきっかけでした。そこで自分が作ったレスラーなども披露したりして盛り上がった我々は、「それぞれで団体運営をして、月に一回くらいは合同大会をしよう!」ということに。それが2000年の秋頃ですかね~。
これがまた面白くて。月に一度集まる機会があるので必然的に仲も良くなり、部活の中で一緒にバンドを組んで演奏したり、ライブを見に行ったり、実際のプロレスの試合を見に行ったりと、多くの時間を共に過ごさせてもらいました。これぞ”ファイプロの縁”でしょうか。


その当時の僕らはどのような遊び方をしていたかについて説明しましょう。当時はSNSなぞはありませんので、僕らが使っていたのはメールでした。各人が自宅でファイプロの興行を行い、その結果を皆にメールするんですね、プロレス雑誌のメルマガ風に。
ファイプロの興行というのは何かというと、自分で作ったエディットレスラー同士で対戦カードを考え、それを何試合も組んで実際のプロレスの大会のようにするんです。そしてそれを”ロジック戦”、つまり自分が一切操作せずにコンピュータの操作に委ねて結果を楽しむ、というもの。これによって自分の思い通りにならない試合結果(これはリアルと一緒ですね)を元に、そのレスラー達のコメントを(もちろん架空で)考え、それをメルマガとして発信するわけです。これって、ある意味プロレスファンの究極の遊び方だと今でも思ってます。

こうして毎週各団体から発信されるメルマガを皆で読みつつ、その中で小さなストーリーが出来て団体のエースが決まったりしていく中で、月に一度の合同大会が開催されるわけです。そこでは統一タイトルが用意されており、皆が自分のレスラーにベルトを獲らせたいわけなので、タイトル戦の実現までにはしのぎを削る対決が待っているわけです。時には口頭でのアピール合戦も重要です。「うちのレスラーは〇〇で凄いんだ!だからベルトに相応しい!」といった風に。そうして晴れて統一王者になれば、他団体からベルトを狙われる立場になる、という。こういう遊びを恐らく4~5年したんじゃないでしょうか。そう考えると、今でもよくやってたなあなんて思います。

こうしたファイプロの縁は、残念ながら先輩たちが先に大学を卒業し、就職したり地元に戻って結婚したりという中で自然と消滅をしたわけですが、それを一変する出来事がこれです。2017年、「ファイプロ完全復活」

10年以上の時を経て復活したファイプロ。その最新作にして集大成と銘打った「ファイヤープロレスリングワールド(ファイプロW)」が発売されたのです。そのニュースにより、僕らのファイプロ熱は再燃しました。

このファイプロワールド、実は発売当初はファイプロファンからは酷評されていました。それもそのはず、これまでの利点だったはずの「架空レスラー」がほとんど収録されていなかったんです。正確には「リアルなレスラーに似せた架空レスラー」ですね。新日本プロレスとタイアップしていたので、最も人気のある新日の選手は収録されていたわけですが、それも一部のみ。僕の大好きなライガーは収録されていないわけです。
挙句にはバグの嵐で、中には「セーブデータを破損する」というゲームにとっては会ってはならない重大なバグまで発見されてしまうという始末。これにはさすがのファイプロファン、プロレスファンも堪忍袋の緒が切れ、この作品のプロデューサーとして発言していた「ともぞう監督」のSNSアカウントにはファンからの罵詈雑言が浴びせられたのです。しかもともぞう監督自身、発売前のインタビューで自身が大のファイプロファンであること、そして最高のファイプロになったということを述べていたので、その期待が裏切られた形になったのも怒りを増幅させたんですね。

この騒動に一つの区切りをつけたのが、自身もファイプロファンと公言していたプロレスラーのタイチ選手でした。自身のSNSアカウントに寄せられたファンたちの想いを代弁するかのように、雑誌の企画でともぞう監督との対談が実現。そしてその対談でともぞう監督を”言葉で”ボコボコ"にしたのですが、それがある意味ファン達の溜飲が下がり、ともぞう監督の真摯な対応に「待ってやるか」という風潮になったんです。この顛末というのは、僕自身の仕事領域である「危機管理対応」「リスク対応」という観点において、非常に良い手だったように思います。もちろん本来は最初からこうしたバグを出さずに完璧な形でリリースするのが筋なわけですけどね・・・。

こうした紆余曲折がありつつも、何とかリカバリーを果たした「ファイプロW」。購入して少し遊んだ後に暫く封印していた僕自身も再度遊ぶようになり、また都度のバージョンアップやコンテンツ追加によってレスラーのエディット環境もかなり向上したこともあり、2018年の自分の誕生日に合わせて、15年近くぶりに架空のプロレス団体を再旗揚げすることを決意します。同時に当時のファイプロ仲間であった先輩たちにも再度協力してもらって、エディットレスラーを多数用意。こうして運命の日である旗揚げの日を迎えたのでした。

旗揚げした団体は”トリプレファ(FFF)”。「Fantastic」「Fighting」「Fan's Fun」という、団体の掲げるモットーの頭文字である”F”を取ったもの。
当時メルマガだった試合結果レポートはブログとなり、そしてYouTubeでのゲーム動画も用意することになりました。動画では一試合一試合に実況と解説を自分たちで入れ、YouTubeチャンネルにアップし、それをブログ内でも見ることが出来るという形式です。当時出来なかったことが、15年後にこうして実現しているというのも嬉しい限りですね。

こうして再開したファイプロですが、2018年11月の旗揚げ以降月に一回のペースで興行を開催。もちろんコロナ禍には休止もあったんですが、先月晴れて2周年、回数としては21回目の大会を無事に終えることができました。もう完全に自分たちの自己満足であり、誰かに理解してもらおうなんてことは全く思っていないわけですが、このように自分のnoteで取り上げたことも何かの縁。そのブログを公開することにしましょうか。

なお、何だかんだプロレス好きの会社の同僚達には話していて、「自分のレスラー作って!」という要望を貰ってはレスラーとしてデビューさせていたりします。そんなこんなでレスラー数としては、僕以外の仲間が作った選手も含めるとなんと50人以上。それぞれに架空の人格があり、それを使って各自が創作をして次の興行までの展開が生まれていくわけです。そうしていくといつの間にかそのレスラーに思い入れが出てきて、そのレスラーが負けてしまったりするとかなり落ち込むし、逆に悲願の優勝を遂げると大感激したりするんですね。40前後のおっさんたちがやる遊びじゃない、とも思ったんですが、そういう歳だからこそこんなゲーム内のことに一喜一憂できる、感情移入できるんじゃないかと思うようになりました。

繰り返しますが、このゲームでは”ロジック戦”で遊んでいます。なので格闘ゲームのように自分でレスラーを操作して戦うことは一度もありません。あくまでレスラーの設定のみ。衣装などをメイクして声を選んで、そして技を全て設定して、そこからが本番。「こういう時にはこう動く」というCPUロジック設定を100項目以上に渡り設定します。言ってしまえばこの設定がレスラーに魂を吹き込み、動きを決めるわけですね。それを何度も何度もテスト試合をしては修正する。そういう遊び方です。もちろん自分たちで操作しないので想像を超えた動作をすることもあり、それがまたドラマチックな結末を呼んだりするんですね。これはほんと、ファイプロのロジック戦で遊んでいる人にしか分からない領域だと思います。


そんな僕らファンのために、「ファイプロW」は進化し続けました。「あればいいな」と思っていた機能が実装されました。「技クラフト」は技自体を、「パーツクラフト」はキャラのグラフィック自体を完全に一からファンが作ることが出来るようになりました。そしてもちろんこのご時世ですので、ネットを介して世界中のファンが作ったコンテンツを自由に使用することが出来る。つまりはファン達によっていつまでもアップデートがされるわけですね。実際のプロレス界で生まれた新技や新レスラーも、こうして自走されるわけです。これはもう「ファイプロ」という庭を自由に使っていつまでも遊べるということです。もうファイプロとして新しくメーカー側の開発は無いということですが。確かにそれがあればいつまでもファンは勝手に遊びます。ここでようやくともぞう監督がインタビューで話していた「ファイプロファンの夢の実現」という言葉が活きてくるんですね。ほんと感謝したい限り。

というわけで、僕らのファイプロプレイは、3年目を迎えてもなお、続いていきそうです。まずは年末クリスマス大会。そして年明けの大会と、ビッグカードが続きます。ある意味究極の「内輪遊び」、これからも続けていきたいと思います。これを読んで少しでも興味がわいた方はぜひ、ご連絡を。アナタのプロレスデビュー、手伝わせていただきますよ(笑)

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