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『毎週水曜はうちの夫を捨てる日です』第1話

あらすじ
里見雪乃、29歳。同じ会社で働く夫の直人とは仲睦まじく、社員からは憧れの夫婦だった。優秀で、社員たちからも人気がある直人に相応しい女性でいなければ、と自宅では夫から厳しく指導され、雪乃も日々自身を律して過ごしていた。
そんなとき、直人が不倫をしているのではないかと疑惑を抱く雪乃。
毎週水曜日、勉強会で帰りが遅くなるという夫のあとをつけた雪乃が見たのは、会社の若い女性とホテルに入っていく姿だった。

ショックを受ける雪乃に手を差し伸べたのは、会社の産業医・小泉。
彼は言う。
「あなたも幸せになっていいんですよ」
「僕も協力します」
雪乃の復讐と自立の道が始まる。




婚姻届を出したら、永遠だと思っていた。
夫と壊れることのない絆ができたのだと。
でも、私はいま、夫を捨てたい。

****

「里見さーん!」

もうすぐ、昼休み。そんな時間帯に大きな声で名前を呼ばれた。
視線を向けると、先輩の内藤さんが嬉しそうに私を手招きしていた。

「里見部長、いらしていますよ!」

フロアの出入り口で、笑顔で手を振る夫の姿が見えた。
慌てて立ち上がり、駆け寄ろうとする私を直人さんが手で制する。

「いい、いい、そのままで。差し入れを持ってきただけだから」

「差し入れ」というワードに、内藤さんだけではなく、部署の女性たちが嬉しそうに集まってきた。

「里見部長、いつもすみません!」
「えっ、これ、キクロのシュークリームじゃないですか。いつも大行列で買えないんですよ。寒い中、大変だったんじゃないですか?」

その言葉に、直人さんは笑みを深めた。

「いやいや、喜んでもらえたならよかった。打ち合わせで近くまで行ったんだ。雪乃とみなさんに食べてもらいたくて」

そう言って、直人さんは私にも笑みを向ける。

「お前も食べたかっただろ?」
「はい。ありがとうございます」
「仕事はしっかりやってるか?」
「大丈夫だと、思います」

営業部の部長として働いている直人さんと社内結婚したのは3年前。
部署は違うけれど、こうしてときどき差し入れを持って私の様子を見に来てくれる。
少し過保護なところがあるけれど、優しい人だ。

「里見部長、こんな高いものいただいていいんですか?」
「もちろん。いつも雪乃がご迷惑をおかけしているからね」

直人さんの言葉に、女性社員たちがきゃあ! と声を上げる。

「本当に里見部長って奥様に優しいですよね」
「いいなあ、こんな素敵な旦那さん」
「そんなことないよ。ただ心配性なだけなんだ」

苦笑いを浮かべ、「なあ?」と直人さんがこちらに視線を向けた。それに私は曖昧に笑みを浮かべて応える。

「それじゃあ、僕はこれで。雪乃、みなさんにご迷惑をおかけしないようにするんだぞ」
「はい」

そういうと、直人さんは軽く手を上げ、フロアから出て行った。
女性社員たちが各々、差し入れのシュークリームを手に取る。有名店のスイーツに、自然とみんなの声がいつもより明るくなっていく。

「いいなあ、里見部長。かっこいいし、めちゃくちゃ仕事もできるし……」
「雪乃さんにだけちょっと素を見せてる感じがキュンとする!」
「で、さりげなく妻の部署に差し入れする気遣い!」

言いながら、みんなが私に視線を向けてくる。

「私にはもったいないような人なんですよね、ほんと」

何の取柄もない私を愛してくれているだけでも、感謝しなければならない。
自宅でも、いつも私のダメなところを指摘してくれる直人さん。
こんなにも私のことを考えてくれる人は、きっとほかにはいない。

思わず、視線が下がる。無意識に両手を握りしめていたことに気がつき、そっとほどく。

「……ほんと、捨てられないように努力しないと」
「え~。でも努力しないと愛され続けないなんてかわいそぉ」

不意にハリのある声が耳を刺す。
声の主は今年3年目の橘さんだった。目が合うと、発色の良いピンクの唇の両端がキュッと上がった。

「でもまあ、雪乃さんのスペックだと努力しても厳しいですよねぇ」
「っ……」
「ちょっと! 橘さん!」

内藤さんが慌てたように注意するけれど、橘さんは涼しい顔でシュークリームをひとつ手に取り、席へと戻っていった。
そばを通り過ぎるときに、ふわりと甘い香りがした。
高そうな香水だ。リップもきっとよいものだろう。目元の彩りも鮮やかで、まつげもしっかりとカールしていた。
「無駄だから」と言って私がどれも直人さんから禁じられているもの。
ぼんやりと橘さんの横顔を眺めていると、隣のデスクの有野さんが私の肩をポンポン、と叩いた。
「雪乃さん、そろそろ健康診断、順番じゃない?」
そうだ、と思い出す。昨日から順に健康診断を受けることになっていた。いってきますね、と腰を上げると内藤さんが「いいなあ」と声を上げた。

「そうそう里見部長もカッコイイけど、産業医の小泉先生も素敵よね!」
「もう、内藤さんはそんな話ばっかり」
「いいじゃない、見ているだけで幸せになるんだから! どうこうなりたいってわけじゃないんだし!」

はしゃぐような先輩たちの声を背に、私は医務室へと向かった。

****

医務室はビルの二階、フロアの端にある。毎年、健康診断の問診で訪れるぐらいだ。
内藤さんが言っていた小泉先生の顔を思い出してみようとするけれど、輪郭さえもおぼろげだ。
どんな人だったっけ、と考えを巡らせながら、医務室のドアをノックした。

「失礼します。企画部の里見です、問診で……」

中は太陽の柔らかな光が入る、明るい空間だった。思わず目を細める。
私の声に反応したように、白衣を着た男性がこちらを振り向いた。

「里見里奈さんですね。こちらへどうぞ」
「……は、はい」
「初めまして、ですよね。今年の春から産業医として勤務している小泉です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

医務室に来るのは健康診断の問診のときぐらいだ。今年の春からなら、会ったことはない。顔を思い出せないのは当然だった。
促されるままに、椅子に腰を下ろす。
小泉先生も私の向かいに座り、長い指でカルテを繰っていく。
わずかに目を伏せると、長いまつげが顔に影を作る。
なるほど、内藤さんたちがカッコイイと騒いでいたのも分かる気がした。

「検査の結果は特に問題なさそうですね。普段の生活で、不安に感じることなどはありますか?」
「普段の……」
「はい。些細なことでも構いません。社員のストレスチェックなどを行うのも僕の仕事なので」
「……特にありません」
「本当に?」

小泉先生がわずかに首を傾げて聞く。

「……? ええ、ないです」
「そうですか、なら構いません」

穏やかな笑みを浮かべながらも、さっきの一瞬の間がなんとなく心に引っかかる。
まるで、何かあるに違いないと断言しているような……。

「もし、悩んでいることがあればいつでも相談しに来てくださいね。みなさんも、気軽に来てくださいますから」
「ありがとうございます」

悩みなんてない。毎日平穏だ……と思ったところで、ふと直人さんの顔が浮かんだ。
引っかかること。
毎週水曜日、直人さんは勉強会に参加している。気になるのは、その帰りがだんだん遅くなっていることだ。
勉強会が終わったあとに呑むことが多いと言っていたけれど、気になり始めると、引っかかってしまう。

「どうかしましたか?」

急に黙り込んだ私の顔を小泉先生が覗き込む。
距離が近づくと、その端正な顔立ちに圧倒されて、少し体をのけぞらせてしまう。

「いえ、なんでもないです」
「そうですか。でしたら、問診は以上になります。何かありましたら、いつでもいらしてくださいね」
「ありがとうございました」

医務室を出て、ひとつ息をつく。
小泉先生の瞳がとても印象的だった。まっすぐに、私を射抜くように見つめる瞳。
確かに、みんなが騒ぐのも分かる気がする。
が、夫がいる私には関係のないことだ。カッコイイと騒ぐことさえ憚られる。
私にできるのは、しっかりと妻としての役割を果たすことだけ。それだけを考えていればいい。
それでなくても、夫からは「トロい」「頭が悪い」と注意をされることが多いのだ。
どうにか定時までに仕事を終わらせて、スーパーに行って、夫が帰ってくるまでにほかの家事も終わらせておかなければならない。
フロアに戻りながらこのあとの段取りを考えているうちに、小泉先生のことは消え去っていた。

****

直人さんは、完璧な人だ。
いい大学を出て、仕事もできる。整った顔立ち、柔らかな物腰。優しい雰囲気から、三十半ばになっても、女性社員のファンは多いと聞く。
そんな人がどうして私のことなんて、と思う。一度聞いたこともあった。その時は、控えめなところ、と微笑んでいた。
私にとっては初めての恋人で、かけがえのない人。直人さんが今の私の人生の全てだ。
素晴らしい人の妻なれたのだから、私も完璧でなければならない。それは直人さんにも毎日のように言われていることだ。
直人さんの生活に支障が出てはならない、直人さんのルーティーンを乱してはならない。だから、帰りが遅い日の翌日……木曜の朝は慌ただしい。水曜のうちに夫の身の回りのことができず、木曜はいつも少し早く起きて家事をこなすようにしている。
今週の水曜、つまり昨日は、いつもにも増して遅かったので今日は特にせわしない。
夫が帰ってくるまで起きていなければならないし、先に入浴することも許されない。今日は睡眠時間も短くなっていて、少し頭がぼんやりして霧がかかっているようだった。

「雪乃!」

出社前に急いで洗濯を済ませようと洗面所で服の仕分けをしていると、背後から声がかかった。手を止めて振り返ると、険しい表情の夫と目が合う。

「俺のブルーのチェックのネクタイは? 昨日つけていくって言っただろ」
「あ……っ」
「全く……言われたことはすぐにやれといつも言っているだろう」
「すみません……」
「怒っているわけじゃない。お前のために注意してやっているだけだ」
「……ありがとうございます」
「いいだろう。もういい、今日は自分でネクタイは用意する」
「お手数をおかけしてしまって、すみません」

大きなため息をつくと、直人さんは部屋へと戻っていく。
一瞬、向けられた冷たい視線を思い出して、心が重くなる。でも、落ち込んでいる場合ではない。早くしないと遅刻してしまう。
急いで、夫のワイシャツを取り出したとき……。

「あれ……」

シャツの胸元あたりに何か汚れがついていた。
よく見るとキラキラしたもの……ラメのように見える。それからファンデーションのような汚れもある。
反射的に、ワイシャツに顔を寄せた。
夫の匂いに混じって、甘い香水の匂いがする。満員電車の中でついたのだろうか。いや、香りはともかく、ラメのような汚れは、ジャケットを脱がないとつかないような場所についている。そもそも、今は電車に乗るときもコートを着ているはずだ。
みるみるうちに不安が大きくなっていく。
ワイシャツは昨日、水曜日に着ていたものだ。
帰りの遅い水曜日。
化粧品の汚れがついたワイシャツ。
甘い香り。
思わず、ギュッとワイシャツを抱きしめた。

「女性と一緒にいる……? 水曜日に……」

あっという間に大きくなった不安は、私を突き動かそうとしていた。


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