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『毎週水曜はうちの夫を捨てる日です』第3話

抱きかかえられるようにして連れてこられたのは、近くの公園だった。
今は何時だろう。スマホで時間を確認することさえ億劫だった。ただ、夜遅いことは間違いない。
人気のないベンチに私はぼんやりと座っていた。

「すみません、ひとりにして」

息を切らせて小泉先生が走ってくる。手にはコンビニの袋。
私の隣に座り、袋をガサゴソとしたあと……。

「少しずつ、ゆっくりと飲んでください」

差し出された紙コップを受け取ると、ほのかに温かった。

「これは……」
「スポーツドリンクを白湯で割ったものです。最近のコンビニは白湯まで売っていていいですね」
「どうしてこんな……」
「あまり食べられていないのでは? 先週お会いしたときよりもずいぶんやつれている。そのほうが、少しは吸収率がいいと思うので」
「……ありがとうございます」

力が入らない両手でそっと口に運び、一口飲む。
カラカラの口と喉に水分が入っていくのが感じられた。

「あったかい……」

思わずそうつぶやくと、また涙がポロポロと零れ落ちた。

「すみません、こんな……」
「いいんです。今は僕以外、誰もいませんし」

そう言って、小泉先生は優しく私の背中をなでてくれた。
止めようとしても止まらない涙。それでも小泉先生は何も言わずに背中を撫で続けてくれた。
そんな優しさが心にまで染みていく気がした。

「一体、何があったんですか……?」

しばらくして、優しい声で静かに問いかけられる。
夫と、橘さん、そして私のプライベートな話だ。おまけに小泉先生は会社の人間。話さないほうがいいのは分かっていたけれど、今このまま、全てを抱えて家に帰れる気がしなかった。

「夫が……女性とラブホテルに入っていくところを見たんです」

スッと小泉先生が息を呑んだのが分かった。

ぽつりぽつりと今さっき見たばかりの出来事を話していく。
小泉先生はずっと背中をなで続けながら、じっと耳を傾けてくれた。

「……ひどい話ですね」

その言葉にまた涙があふれた。
あの人、いやあの人たちがひどいことをしていると言っていいんだと思っただけでも少し救われた。

「ごめんなさい。介抱してもらった上にこんな話まで聞かせて」
「僕のことは構いません。でも、」

言葉を切ると、小泉先生はじっと私を見つめた。
真剣なまなざしだった。

「これから……どうするんですか?」
「え?」
「夫が不倫していたんですよ。それも職場の後輩女性と。何もない顔をして帰れますか。出勤、できますか」
「……」

家でのこと、職場でのことを想像してより心が重くなった。
また涙が零れ落ち、その涙を小泉先生がハンカチで受け止めた。

「……ごめんなさい」
「謝らないでください。……あなたを泣かせたいわけじゃないんです。ただ心配なだけで」

私に紙コップの代わりにハンカチを握らせて、小泉先生は小さく息をついた。

「今、あなたは冷静な判断ができないと思います。だからこそ、そのまま自分の感情に蓋をして、なかったことにしようとするのではないか、と」
「……」
「あなたが許せないと思えば、離婚という選択肢だってあります」

離婚という言葉に顔がこわばった。

「毎週水曜に女性と会っていることが分かれば、揺るぎない証拠もつかみやすい。同じ職場ですし、あなたが会社に告発すれば、ふたりは会社にいられなくなる可能性もあります」
「そんな……そんなひどいことをするつもりはないんです! それに離婚なんてできませんし」
「どうして?」
「まず……お金がありません」

結婚したときに、夫婦なのだからと貯金は全て預けるように夫に言われた。給与は全額を夫に渡し、その中から毎月生活費と小遣いを5万円もらっている。
しかし、金額を聞いて先生は目を見開いた。

「ふたり分の生活費、小遣い込みで5万!? 足りていますか?」
「光熱費は夫が出してくれていますし、夫は外食が多いので」
「それにしたって……。立ち入ったことをお聞きしますが、あなたの残りの給与はどうなっているんですか?」
「夫が貯金してくれていると言っています」

小泉先生が言葉を詰まらせたように見えた。それから、わずかに目を伏せる。
よく知らない人にペラペラと喋ってしまったことを後悔していた。
もし、夫のよくない噂が広まったりしたらどうしよう。
小泉先生は悪い人には見えないけれど、もし私が話したことが夫に知られたらひどく怒られるだろう。

「……先日の問診のときも気になっていました。あなたの瞳に覇気がなくて」
「覇気……?」
「大丈夫ですか? あなたは最近、幸せだと感じたことはありますか?」
「しあわせ……」

問いかけに、思わず記憶をたどった。
あの人がプロポーズしてくれたときは本当に幸せだった。愛し続ける、大事にする、とも言ってくれた。今も大事にしてくれているから、私を養ってくれて、私が社会生活で困らないようにいろいろとアドバイスしてくれて……。

「いつも、私のためだからと言っていろいろとしてくれて……」
「それで今は幸せですか? あなたも幸せになっていいんですよ」

言葉に詰まる私を小泉先生がじっと見つめる。
何も言えなかった。
幸せとはなんなのか、幸せとはどんな気持ちになるのかも、わからなかった。

「ご主人は……あなたを幸せにするどころか、不幸にしている」
「そんなこと……」

小泉先生がゆっくりと首を横に振った。そして、小さく、ごめんなさい、と私に向かって言った。

「あまりにもあなたが辛そうで、どうにかしたくなってしまって……言葉がきつくなってしまいました」
「いえ……」

きっと、あの場所に偶然、小泉先生が通りがからなかったら、私はずっと動けずにいただろう。
寒空の中、凍えて倒れていたかもしれない。
でも、もしかしたらそのほうが夫にとってはよかったのではないか……。

「どちらにせよ、もっと自分の心を労わったほうがいい。自覚しているよりも、あなたの心はボロボロですから」

小泉先生が私の手を両手で包み込む。壊れ物を扱うような、優しい触れ方だった。
ひどく冷えていた指先が、小泉先生の体温で血が通うのを感じる。

「また辛くてどうしようもなくなったときは、僕に連絡してください。会社なら、医務室に来てくださるのでも構いません」

先生の言葉を聞きながら、私は動けずただ宙を見つめていた。

****

小泉先生にタクシーで送ってもらい、どうにか帰宅した私はソファに力なく座り込んだ。
タクシーの中で、小泉先生に言われた。
自分が、どうしたいのかよく考えたほうがいい、と。答えを出すための相談になら乗る、とも。小泉先生がひとつの選択肢として出してくれた「離婚」。でも、今の私には無理だ。
暗い部屋の中で、心の奥から形容しがたい感情が沸き上がってきているのを感じる。
その時、ガチャガチャッと玄関の鍵が開く音がした。
大きな足音と共に灯りが付き、目を細める。

「雪乃! いないのか!?」
「あ……おかえりなさい……」
「なにをしていたんだ? 俺が帰ってきたのに出迎えもせず!」
「ご、ごめんなさい」

夫はギョロリとリビングを見回す。

「洗濯物も片付いていないじゃないか。俺は働いていたっていうのに、ボーッとしていいご身分だな。その様子だと、風呂も沸いていないんじゃないか?」
「は……はい」
「本当に何もできない女だな。お前の取柄と言えば、俺が夫というぐらいなんだから、もっとしっかりしろ!」

大きな声に、頭がガンガンする。咄嗟に耳をふさぎたくなった。そんなことは、初めてだった。

「ごめんなさい、今すぐお風呂を……」
「もういい! シャワーを浴びてくる!」

脱いだジャケットを私に押し付けると、夫はリビングから出て行った。
険しい表情だった。最近はあの人のそういう表情しか見ていない。橘さんには、あんなに優しい顔で微笑みかけていたというのに。
のろのろと体を動かす。
いつもの習慣でジャケットのポケットを探ると出てきたのは、タクシーの領収書と……さっきのホテルのものであろう領収書。

「そう、3時間もいたの……」

私が毎回ポケットの中を確認するのは、夫だって知っているはずだ。心がスッと冷えていくのを感じた。
あの人は自分がしていることが、私にバレようとバレまいと、どっちでもいいのだ。
ジャケットに顔を寄せる。かわいらしい甘い香りが残っていた。
今ならわかる。
この香りはよく会社で嗅いでいたものだ。嫌というほどに。

「私はいま、幸せなの……?」



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