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『毎週水曜はうちの夫を捨てる日です』第2話

翌週、水曜日。
内藤さんにお願いして、定時を10分だけ早く上がらせてもらった私は、会社のロビーにいた。柱の影に隠れて、セキュリティゲートを見つめる。

毎週水曜日、夫は社外の人も交えてマネジメントに関する勉強会に参加している。会社の近くのお店などでやっているらしい。私が教えてもらったのはそれだけだ。
本当にそんな勉強会に参加しているのだろうか。夫の部署の人に聞いたけれど、ほかの社員は存在も知らなかった。
心の中で大きくなっていく、夫が浮気をしているかもしれないという疑惑。

浮気じゃないかもしれない。でも、確かめたかった。
夫を信じて生活をするために。仮に違ったとしたら、浮気を疑った自分が馬鹿だった、それでいい。

待つこと10分。夫の姿が見えた。
慌ててそのあとを追いかける。帰宅時間帯ということもあって、人混みに紛れれば、バレることはなさそうだ。
夫は大通りに出るとタクシーを止めて乗り込んだ。電車で移動するものだと思っていたから、一瞬、迷いが出たけれど、タクシーを使う贅沢なんて今日だけだ。
私も別のタクシーを捕まえて、前のタクシーについていってもらうようにと告げた。
グングンと上がっていくメーターが気になるが、今月の小遣いを切り詰めればいいだけだ。流れていく街並みを見る余裕もない。大きくなっていく不安をなだめるだけで精一杯だった。

前のタクシーが止まったのは、落ち着いた雰囲気のイタリアンレストランの前だった。私も少し離れたところでタクシーを降り、木陰に身を隠した。
その店は、私も知っているレストランだった。結婚前に夫と一緒に来たことがある。
ここで、プロポーズをしてくれた。私にとって、大事な場所だ。
そんな場所で誰と会うというのか。
レストランの前で、誰かを待っている様子の夫。その表情が不意に緩む。そこに駆け寄ってきたのは……。

「橘さん……」

私の部署の後輩、橘彩芽さんだった。
慣れた様子で、橘さんは夫の腕に自分の腕を絡める。
夫はそれを当たり前のように受け入れ、笑顔を見せた。ふたりがレストランに入っていく。
どう見ても、勉強会、という様子じゃない。そもそも、彼女がマネジメントの勉強会に参加しているだなんて聞いたことがない。参加していれば、うちの部でも声高に話しているはずだ。
いや、と軽く頭を横に振る。
今日はたまたま勉強会がないだけで、橘さんに何か相談されたのかもしれない。夫は後輩や部下に頼りにされている人だ。私も夫のそんなところに強く惹かれたのだから。きっと、相談を持ち掛けられたら夫は断らない。

店内に入っていったふたりは、ありがたいことに私から見えやすい、窓際のテーブルに案内されていた。にこやかに話をするふたりを見つめながら、なんでもないことだと言い聞かせる。何度も、何度も。
冷たくなっていく指先。両手をこすり合わせてみたけれど、ちっとも温かくならない。
このレストランに来たのは久しぶりだった。プロポーズしてくれた日のことは、今でも鮮明によみがえる。

『絶対に幸せにする。一生、君だけを大事にして愛し続けるから』

自信満々にそう言った彼はとても頼もしくて、この人と一緒にいれば大丈夫だと思った。
幸せになれる、ずっと笑顔でいられる、と。

食事をしながらにこやかに橘さんと話す夫。彼が私の前で笑わなくなったのはいつからだっただろう。私が夫と外食したのはいつだっただろう。
記憶を掘り返してもなかなか思い出すことができない。それほど昔のことだった。
目を合わせ、微笑み合う。時折、テーブル越しに指を絡め合う。
ふたりの距離の近さが感じられるたびに、呼吸が苦しくなった。
そんなふたりの姿を見つめ続けるのは、苦行のような時間だった。逃げ出したい、帰りたい、と何度も思ったけれど、足は動かなかった。
最後まで見届けて、安心したかった。夫はただ、橘さんの相談に乗っただけ。このまま、夫は家に帰る。私のほうが帰りが遅くて、きっと怒られるだろう。それでもかまわない。

やがてレストランから出てきたふたりの姿を祈るように見つめる。
ここで別れてほしい。タクシーを呼んで、帰ってほしい。
でも私の淡い期待とは裏腹に、ふたりは顔を寄せ合うようにして楽しそうに話しながら一緒に歩き出した。
橘さんを駅まで送るだけかもしれない。そういう紳士的なところがある人だ。少しの望みを持ちながら、距離をとりつつ、あとをつける。
しばらく歩いた先で、優しい手つきで橘さんの腰を抱き寄せ、ふたりは目の前の建物へと入っていった。
指先が震えた。おそるおそる建物の看板を見ると、そこはラブホテルだった。

反射的にその場から逃げるようにして走り出した。
走りながら、夫が橘さんとラブホテルに入っていった言い訳を考える。橘さんの具合が急に悪くなったのかもしれない。いや、逆に夫が。もしかしたら、勉強会で他の人もいるとか。
そこまで考えたところで、足が止まった。

「馬鹿じゃないの……」

思わず言葉が口をつく。
ラブホテルでマネジメントの勉強会なんてするはずがない。やることなんて決まってる。このあと、ふたりは部屋で……。

「う……っ」

胃からせり上がるものを感じ、その場にしゃがみ込む。

「うぇ……っ、えっ、ごほっ……」

気持ちが悪いのに、吐くものもない。当然だ。この1週間、夫が浮気をしているかもしれないと思うと、何も喉を通らなかった。
代わりに涙があふれてくる。

水曜日は毎週あの子といたのだろうか。
夫はもうずいぶん長い間、私には触れようとしない。同じベッドにも入らない。私のほう遅くに寝て、早く起きるから、睡眠が害される、と言われた。でも、あの子とはベッドをともにしているのか……。

「ひ……っ」

嗚咽と、吐き気で声にならない声が口から洩れる。止まらない。絶望と悔しさが、変わるがわる襲ってきて動くこともできなかった。

「大丈夫ですか……?」

不意に上から声が降ってきて、のろのろと顔を上げる。
見覚えのある整った顔が憂いに歪んでいた。

「……里見さん?」
「え……小泉……先生? どうしてここに……」
「そんなことより真っ青じゃないですか! どうしたんですか」
「なんでもない、です……」

立ち上がろうとした瞬間、めまいがした。ずっとしゃがんでいたせいだろう。よろめいた私の体を小泉先生が抱きとめた。

「すみませ……大丈夫なので……」
「こんな状態で大丈夫なわけがないでしょう。少し歩けますか」
「……はい」
「近くで休みましょう」

人に迷惑をかけちゃいけない。そう思ったけれど、体に力が入らない。
私は一週間前に会ったばかりのこの人に、身をゆだねることしかできなかった。




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