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多様性は可能性。

「ジェンダーレス」、あるいはもっと平易に「ジェンダーの時代」という言葉をあちこちで頻繁に聞くようになった。
なにかひとつ発言するにあたっても、「ジェンダーレスの時代だから」と付け加える人がいる。少し前なら「これ、パワハラになっちゃうよね?」「こんなこというとセクハラになっちゃうけど」とブレーキをかけるのと同じことだ。

しかし、そういうもの言い自体がかえって、あたかもそれを特殊化しているようでとても気になる。
これはジェンダーに限ったことではなく、信条、職業、宗教、民族や経済力、教育の有無などあらゆるアイデンティティに共通することだ。
リスク回避のためにそれを前提化して生活されることより、アイデンティティの闘争にある人たちが求めているのは、権利でも平等でもなくまず理解だ。理解された上で、価値観の多様性はジャッジされ、権利を獲得しあるいは平等を獲得していく。場合によっては、淘汰もされていくだろう。物事にはすべて、必然的な順序がある。

理解したふりをして手放しに賛成して無理解を露呈するのは愚かなことだ。軽率に過ぎる。私はといえば、ほとんどの可能性について、まだ判断をするほどの理解をしているとは言い難いレベルにある。これらの選択が、500年後、1000年後の地球や人類にどのようにつながっていくものか、その糸口すら見えていない。
ただし、一定の人が幸せになれない、あるいは取り残されてしまう制度やシステムがあって、そこから生まれた生命(これを私はまだ文化とは呼びたくない。それは文字通り「命懸けの生命」であり、スタイルや思想で語られるものとは異なるからだ)が、自らが抱える可能性を、別の価値観を生きる人々に、共に検討してほしいと声を上げている、そういう時代なのだと理解している。

だからかえって、我々がいま歩み始めた「多様性に寛容な社会」というのは、多様であることが正解な社会、ということには一足飛びに直結しないということを覚えておかなくてはいけない。
たいせつなことは、多様性とは、いつも可能性であるということではないか。可能性を探り、結論が出るまでには時間がかかるものだ。

宗教を例にあげれば、たとえば神仏習合や英国国教会の成立などは、政治的駆け引き、時代性の受容と先見性、あるいは妥協と可能性の産物だ。柔軟でなければ回避できない問題がそこにある時、人は可能性に向き合わざるを得ない。神仏習合や英国国教会という選択が、十分に検討された可能性であったか、あまりに切迫した事態への性急な決定だったのか、これは後の世が判断することだ。

さてそうなると、わたしたちにも、検討すべき色々な可能性があるはずだ。それらは奇想天外に思えるかもしれないし、ある面ではタブーに分け入るようなものもあるかもしれない。しかし今の世の中を作り上げてきたものの多くは、その前の時代では考えられない、あるいはあってはならないことだったはずだ。
極端かもしれないが、たとえばキリスト者がお寺の墓に入り、親子の結婚が認められる。高齢者が性を謳歌し、精神障害者もパラリンピックに出場できるようになる。AIに感情を与える未来が近く訪れるかもしれない。高齢化社会は福寿でないことも認めてもらえるならば、医療の万能主義も襟を正す。そして安楽死も認められるだろうー。

多様性というのは、あらゆる生命の豊かさへの、しかしあくまで可能性であること。そしてその成熟を理解に則って見守ること。そうして新たな価値観が生まれ、多様性は可能性を超えて普遍性を獲得していく。生命(いのち)の声が、理解され受容されてはじめて、文化になり文明となるのだと思っている。(了)

Photo by Gerd Altmann,Pixabay

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