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 あくまで気持ちの上で、ではあるが、若かったと呼べる程度最近まで、私は偶然という不規則さや、その衒いのない無邪気さがどこか苦手で、身に降りかかる良いことも悪いことも、それぞれに筋の通った意味があり、理由がある必然なのだと信じ込む癖があった。
 だから、たくさんの偶然を看過ごし取りこぼしてきたし、おそらくそれらを必然に置き換えることで、いや取りこぼしはしなかったのだと自分に信じ込ませてきた。必然は、理解や納得に便利であるし、因果の辻褄に困ることがない。そんな生き方を面白いと思うかそうでないか、それは人それぞれだろう。
  普通なら、偶然のような余白の多い感覚を遊び倒して必然を管理できるようになるのが順序正しいのかもしれないが、必然漬けで生きてきた私には、逆に「偶然の使い手」の方が達者に思えたりする。 

 成熟したのだ、といえば格好良いのだが、どうやら辻褄の合わないことが増えてきたのかもしれない。どこを境、とは指せないのだが、最近偶然の面白さに取り憑かれているのだ。
 それは紛れもなく、この変わり果ててなお休むことなく続いていく日常で、予測不可能な偶然の洗礼を立て続けに浴びたからで、確かに、都合の悪い偶然ばかりが連発していたら、あるいはいまだにその不都合さの原因を隅々まで検証して、相変わらず必然に仕立てあげていたのかもしれない。 しかし、世の中が変わって、気が付いたこと、取り戻した-文字通り“奪回”した-ことも少なくなかったのだ。

 荒療治といえば、これだけ世界を混乱に陥れたウイルスでは授業料がいかにも高すぎる。まして、その犠牲になっている人や社会のおかげで個人が何かを手にするなど、図々しい話ではある。この世界規模のリスクを経験して、世界が何を手にするのか-。
 だが人々の生き方そのものを大きく変える力が困難にはあるということ、そしてそれが私の場合は、偶然を愛し受け入れることができるようになったということ。あの不安と絶望に覆われた日以来今もって、皮肉にも毎日が私の「偶然記念日」なのだ。(了)

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