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旅情奪回 第28回:時空の旅路に思い出す別れ。(後編)

(前編のつづき)

父方の祖母は春先に旅立った。残念なことだが、長兄と父が15歳違いであるから、私が日本に帰国した頃には、すでにかなりの高齢で、文字通り三歩下がって夫の影を踏まないような人だったので、実はほとんど思い出らしい思い出がない。食卓を共にすることはなかったし、なにか一緒に行事を楽しむこともなかった(正確には、一度だけ外食に行ったが、祖母は食事をしなかったのだ)。
家父長制の影のような生き方をした人だったが、もとは大きな旅館の長女で、お転婆でよく笑う明るい人だったという。そんな祖母の人柄を知ったのは、祖母が認知症になってしまってからのことで、それも哀しいことであったが、病床を訪れると朗らかな声でよく話し、「お祖母さんってこんな人だったのか…」と驚いたものだ。人生の最後に、祖母の祖母らしい人柄を知ることができたのは、老いの病がくれた奇跡だったのかもしれない。

母方の祖父の死は特別な経験であった。祖父は私にとって憧れそのものの人であった。無邪気な三男坊の父は、どこか弟のような愛嬌があって、父でありながら父でないような、そんな人だったので、かえって私には祖父が父のように思えたのだ。父が単身赴任が長く、その間祖父と暮らしたことも影響が大きいだろう。
戦時中は、通訳として入隊するもインパール・コヒマの激戦に従軍し、“白骨街道”を踏み越えて地獄絵図を生き延びた。日本が敗戦していただろうことは勘付いたそうで、このまま帰国せずに僧となり、亡くなった戦友を弔いながら現地で暮らそうと決めていたが、できることなら最後に故郷の海を見て死にたいという、ただひとつの未練があったという。
帰国する小舟の乗員のひとりが、今まさに出航する直前に息絶えたことで、戦地をともにした仲間から突如声がかかり、繰り上がって舟に乗せてもらい帰ってきた故郷は灰燼に帰してしまっていた。
その後、若くして、今では大企業と呼ばれる会社の経理部長となり、職務一筋70歳まで現役サラリーマンとして勤め上げた。経理マンは清廉でなければいけない、を信条とし、貫き通した。お歳暮の品を持ってきた社員の方の奥様に、品物は受け取れないと断ったところ、「だったら捨ててください」と怒鳴られて、玄関にお菓子やお酒を投げつけられたこともあったという。
祖父はいつも定刻に起き、乾布摩擦をしてからワイシャツに着替え、きまって半熟卵を食べて仕事に行き、夜の七時には食卓についた。ソフトハットをかぶった、窓から見える祖父の歩く姿は、文字通り飛ぶようで、決して絶世の美男子ではなかった(しかし、転勤になると柱の陰から女性社員が見送っていたという目撃情報を祖母から聞いたこともある)が、いくつになっても一分の隙もない矍鑠としたスーツ姿に、近所の人(男女に関わらず、であるが)からも素敵だとよく褒められていた。
無論、石部金吉の祖父は、そんな声もどこ吹く風。山男でゴルフを嗜み、野球と相撲が好き(二台のテレビで観戦しながらの夕食は、祖母によく注意されていたが、まさに「ながら食事」の昭和版かもしれない、といまは思う)。ジャイアンツが負けると少々ご機嫌斜めになるほどのファンであったが、ほかには家族を大事にする以外には趣味という趣味のない人であった。働き者だが豪快な親分肌で、強烈なカリスマを持った趣味人の実父を、あまり好いていなかった祖父らしい。しかし、転勤が多かった割に上司や部下に信頼され、友人は多かった。
退職してからは、かつて望んだ僧職への憧れを一部だけ叶え、戦友たちの弔いを果たすため、仏像彫刻を趣味とした。また意外にも俳句の才能があり、死ぬ直前まで句作に没頭した。
私は、祖父の一番近くにいて一番可愛がられ、何より、一番教えられただろうと思う。先祖代々の墓を東京に移し、最後に生まれ故郷のすべてを整理する旅にも私が同行した。
二十歳そこそこで、先祖の眠る墓石の中まで入っていって、遺品に故人の人となりを想い、その骨を拾い集めた経験は、なおさら私の中の一族愛を深めた、これこそスピリチュアルな出来事であった。
大仕事を終え、祖父が長年通ったという料亭でお酒を酌み交わした日は、今も忘れられない。その後、まさか20年以上の時間をともにできるとは、あの瞬間には想像もしていなかったのだ。
嘘のような話であるが、祖父が旅立つ直前の空に、雲が、羽ばたく天使の羽のような姿で浮かんでいた。まもなく祖父は旅立った。
病を得てからこの世を完全に去る、その最後の瞬間まで立ち会ったのは、祖父との別れがはじめてであった。
火葬場で、私は絶対に泣かないと決めていた。皆で泣きながら手を合わせて祖父を送るとき、私は涙を流さず大声で「また会おう」とだけ言ったところ、真面目な弟がびっくりし動揺していた。あとで、「お前、やりやがったなぁ」と言われ、私はただ笑っていた。
幼い頃に母をなくし、戦地で死線を彷徨いながら終世、決して人の悪口や恨み言を言わない人であった。そこも憧れであり誇りであった。
しかし、一番近くにいて一番影響を受けたはずなのだが、いざいなくなってみると、実は祖父の深いところをどこまで私は理解できていたのか、不思議なことに今さらになって自信がなくなるのだ。祖父が、実はミステリアスな人だったということに気づいているのは、私だけなのかもしれない。

一番近い別れは、父の兄である伯父の死だ。私は特にこの伯父と似ていると言われることが多いが、当たり前であるが、私より従兄弟のほうが、やはり伯父に似ている。この飄々として陽気な伯父は、まさに天高い秋の空に旅立った。
父の自慢の兄で、成績優秀・スポーツ万能、おまけにそれを鼻にかけることもなくいつでもどこでも人気者。
私から見ても、光の当たる人というのはこういうことをいうのだといつも思っていた。仕事も華やかだった。高度成長期のテレビ局で、生番組を経て、今でも知られるヒット番組や企画を連発したプロデューサーだった。最後は編成局長になったが、きっと現場の方が楽しかったに違いない。
伯父が話すことは、テレビ業界の大変さや厳しさなど、なぁんにも。いつもミーハーなことばかりだった(そういう調子も、酸いも甘いも知り尽くし、苦労だってたくさんしたはずの伯父の格好いいところであったと、思春期を過ぎた私はすぐに気がつくことになるのだ)が、私は当時そういうのはあまり好きでなく、よく伯父に「テレビなんか」と議論をしかけると、「▲ちゃん、そう言うなって。テレビも楽しいよ」とあの調子で言われるので、最後はすっかり取り込まれてしまうのだ。そういう私の青さもかわいがってくれていた。
とにかく多趣味で、深入りしないが、やってみると大体勘を掴めてしまうようなところがあり、そういう引き出しの多さでもって、老若男女、相手が誰であろうと嫌な思いをさせず、退屈させることがなかった。
仕事について電話で相談したのが、伯父の声を聞いた最後になった。今はタンゴにはまっている、と言っていたのが伯父らしい。
伯父は伯父なりに私を思ってくれいたのか、その後あるときいきなりハガキが届いた。思えば、それが親しい人への別れの挨拶だったのかもしれない。誰であれ、縁のあった人は逸らさず大切にしてきた、意外にデリケートな伯父らしい振る舞いだったのではないだろうか。
不謹慎かもしれないが、お墓参りに行くと、つい最初に目が行ってしまうのがこの伯父の墓だ。お墓ですら、あの独特の光が燦々と輝いているのだからかなわない。

人からすれば、おそらく少ないほうだ。しかし“故郷なき望郷人”である私からすれば、すでにこれだけの家族と別れてきた、という気がする。
祖父はよく言っていた。「会者定離」、出会う人がいれば、別れもまた必然なのだ。しかし逆に、別れた数だけ出会ったということだ、と。
別れの悲しさではなく、出会えた数の喜びを想いながら、この季節を味わっていく。(了)

※前編はこちら

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