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旅情奪回 第18回:床屋 de ヰタ・セクスアリス(前編)

いったい、自分自身の、とりわけ性的な目覚めについて、こうして公に、それも大層真面目に記述するということがいかに勇気のいることか。
それでもここにそれを記すのは、なにか高邁な目的があるわけでもなく、特別な露出を意図しているわけでもない。ただ、それを辿ることは、たしかに些か古い手法であるとはいえ、幾分かの郷愁を取り戻すのに役立つかもしれない。それが、故郷なき望郷者の私にとって、数少ないホームと呼べる場所での幼稚な記憶であるならば、である。

と大げさな前振りになってしまったが、結論からいえば私の「性(今でいうならば、一種のポルノグラフィー的な意味での性である)」あるいはそれに似た感情の目覚めは早かった。
それは、おそらく少年がまだ5歳か6歳だった頃のことだ。たびたび書くように、当時私はブラジルの港町で暮らしていた。

そこでの生活は、まず毎朝、玄関に届けられた厚手の袋にパックされた牛乳を回収し、その足で父に連れられ、どの街のどの角にもあるような、小さな雑貨店に行って父の新聞と朝食用のバゲットを買ってくることから始まる。あの時代、サンパウロのような都市でもない街で、まして日系ブラジル人でもない日本人の親子が、朝から呑気に街をウロウロするなどという光景は珍しく、それは好奇な目で見られる対象ではあったのかもしれないが、いつしか月日が経つにつれて、どの街のどの朝にもあるようなありふれた景色になっていった。そのうえ、あの街では時間がとてもゆっくりと流れていて、誰がどこから来たかなど、ことさら細かく気にするような人などいなかったのだ。

だいたいああした雑貨店では、お店に入ればなにも注文しなくてもいつものものがすぐにカウンターに出てくる。注文などというつまらないことに時間を割くのは忙しい朝には無駄なことで、わずかでも時間があったら、昨夜のサッカーの試合のこと、今朝の新聞に出たニュースのネタばらし、友達の奥さんがどうしたとかこうしたといった、そんな無駄話に時間を使ったほうがずっと有益なのだ。手際よく紙袋に差し込まれたバゲットを片手に、父と私と弟で徒歩1分の自宅に帰れば、コーヒーのいい匂いが待っている。

こんな街だ。大概のことは、目抜き通りのショッピング街に行かなくても済んでしまう。そんな場所は特別な日、たとえば誕生日やクリスマス、少し澄ました食事会のときにだけ行けばいい。だから、日用のことは近所で十分なのだ。
私はまだ母に髪を切ってもらっていたが、父がいつも散髪にいく床屋にはよくついて行った。床屋のおやじはジャポネーズの少年に優しかったし、そうやっていつでもどこにでも、父について行くのが楽しかった。大人に話しかけられ、構われることが、当時は好きだったのだ。

今にして思えばあのときは、「大人の居場所」、それも仕事場が、とても近い世界にいたのだ。大人の仕事場が、まだ子どもの遊び場だった時代だった。大人が働いている姿を、子どもという立場や目線−つまりは労働の埒外−から眺めることが、大人への階段につながっているような、そんな世界だったのだ。ルールの中であれば、子どもが大人に気を遣う必要もなかったし、大人たちも子どもを邪険にするような空気がなかった。あわよくば、この子に大人の世界の一角を我先に自分が教えてやろうなどと、子供じみた悪戯心でうきうきしているような大人でいっぱいだった。(後編につづく)

※後編はこちら


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