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“好き”は、自分の中にある

自分の“好き”を信じろ」と言われても「そんなの分からないよ・・・」というのが、偽らざる本心かもしれない。唯一無二の答えがあるワケではないが、ハッキリしていることは「“好き”は、自分の中にしかない」ということだ。誰だって、自分が見たことも聞いたこともないものを、やろうとは思わないだろう。 

だから、自分は何が好きなのかハッキリしない人こそ、「まずは何でも精いっぱいやってみる」ことだ。やるかやらないか迷ってるヒマがあれば、サッサと動くのが吉である。


与えてもらえる間に、掴め

大学受験を突破した学生の中には、「燃え尽き症候群」のように目的意識を失ってしまう人たちが一定数いる。また、社会人も3年以内に3割が離職するというから驚きだ。大学に進学し、社会に出れば、親や先生が「ああしなさい」「こうしなさい」と縛り付けることはない。「何をしてもいい」というのは、それだけ「自分がどうしたいか」がないと、扱いに困るものなのだ。

一方、中学高校まで、ほとんどの人は「与えてもらう側」でいられる。たしかに、決められた時間に学校に行き、決められた場所で授業を受けるのは、ウンザリかもしれない。僕も学生だった頃、先生が休んで休講になったら誰よりも歓喜の雄叫びを上げていた・・・笑

でも、教師という立場で様々な生徒を見ていて思うことは、「いつどこで自分の“好き”に気付くかは分からない」ということだ。「自分の“好き”」に気付くヒントは、そこら中にゴロゴロ転がっている。たとえば、授業中ボーッと座ってただけの人、板書や先生の発言をただひたすら写経してきた人だって、ちょっとした心掛けで「自分の“好き”」に気付けるかもしれない。

すぐに実践できるコツとして、『東大読書』でも紹介されていたうなずきながら読書する/授業に参加してみるという方法がある。うなずきまくって周囲の目が気になるっていう人は(笑)、声に出さなくとも心の中で「へぇ~」とか「なるほど~」と考えながら授業に参加するのもいい。理解できていないところでは「へぇ~」とはならないし、「でも、この場合は一体どうなんだ?」といったように、自分の理解できていないところを知り、考えるトレーニングにもなる。

文化祭では、クラス劇で主役をやりたい人もいれば、裏方の照明に徹することに美学を感じる人もいるだろう。また、実行委員として、全体の組織運営をすることに生きがいを感じたり、来場者の方々を案内すること(=お客様と接すること)が好き!って人もいるはずだ。

部活でも、仲間と目標達成することの喜びを感じる人もいれば、自分の限界にひたすらチャレンジすることに喜びを感じる人もいる。ただ、自分の居場所になればいいと思う人だっている。

大切なのは、普段の生活の中にその小さな種が落ちているのだと自覚することだ。最初は「面倒くさい」と思っていても、案外続けてみたらハマッてしまうことって、ザラにある。

もちろん、いつも「自分の“好き”を見つけなくては!」と肩肘を張っていては疲れてしまう。だけど、ふとした時に「あれ?これ楽しいなぁ」とか「自分はこういうことに向いているかも・・・?!」とか、そういう小さな種を大事にして欲しい。


学校とは、安全に「失敗」することを学ぶところ

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「自分の“好き”」に気付くための第一歩は、食わず嫌いをせずに様々なことに精一杯取り組むこと。でも、その上で「やっぱりやりたいことじゃないなぁ」「どう考えてもしっくりこないなぁ」と思えば、いっそ辞めてしまうのも一つの選択肢である。

とかく、中学高校時代というのは「学校がすべて」に思えてしまう。ある意味当たり前で、ほとんどの中高生にとって所属しているコミュニティーと言えば「学校」しかない。

しかし、現実には世界は想像以上に広いし、「こうしなければいけない」ということの方が少ない。別の何かにチャレンジしたいのであれば、周りの声なんて気にする必要はない。覚悟があれば、最後は自分の声に従えばいい。

「可能性は無限大」と書けば聞こえは良いけど、事を成し遂げたいのであれば、「選択と集中」は必須である。学校は、様々な挑戦を通して死なない程度に安全に「失敗」を学ぶところである。自分の「好き・嫌い」「得手・不得手」を知り、自分の可能性(=限りある時間)をどこに振り分けるか考えるところである。

幻冬舎の編集者・箕輪厚介が自身の講演会でこんなことを言っていた。

「ビジネス書を言語化すると、どれもこれも『やるべきことを探して行動しろ!』ということしか言っていないんですよ・・・(笑)」

中高時代にしておくべきことは、「失敗」である。そもそも、「失敗」は挑戦した者にしか訪れない。中学高校時代での「成功」とか「失敗」とかって、マラソンの途中経過でしかない。最後に笑うためには、「成功するかしないか」よりも「成長するかしないか」で価値判断する習慣をつけることだ。

先日、テレビ番組でマツコ・デラックスが語っていたのだが、自信って「自分なら、まぁなんとかやっていけるだろう」という感覚だと思う。そういう感覚を養うために、日々の中で小さな勝 利と敗北を繰り返し、他人が「失敗」と呼ぶような大概のことを、“かすり傷”と笑い飛ばして前に進むのだ。


いずれ、“点”は”線”につながる

Appleの共同設立者であるスティーブ・ジョブズは、2005年のスタンフォード大学卒業式スピーチで **“Connecting the Dots” **について卒業生に語った。

※原文You can’t connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future. You have to trust in something — your gut, destiny, life, karma, whatever. This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
※日本語訳先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じることだ。何かを信じ続けることだ。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、そして私の人生に大きな違いをもたらした。

何度でも言うが、「自分の“好き”」は突然、しかし必然的に訪れる。取り組んだことすべてが、いずれ血肉になる。すべての「点」は、いつかまた君の下へ降ってくる。

僕は中学生の頃から、教師になろうとは考えていた。けれど、まさか地理やハンドボールを教えることになるとは微塵も想像しなかった。

でも、自分の人生を振り返ってみれば、小さな頃から「車窓を眺めること」が好きだったり、野球で「チームスポーツ」の魅力にのめり込んだりしていた。「何をやるか」は変わったけど、本質的に「何が好きか」は変わっていない。

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いま、僕は好きなことを仕事にできて幸せだ。好きだから、夢中になれる。これが好きなことでなかったり、やらされたりすることであれば、もしかしたら「ブラック」だと感じていたかもしれない。


自分の“トリハダ”を信じろ、“異”を恐れるな

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僕は中学生の頃、ひと夏だけコーラス部に属していた。残念ながら才能はなかったのだが、とにかく“ハーモニー”が大好きだった。音楽室に和音が響くと、いつも鳥肌が立っていた。野球の試合もそうだった。地球の果てまで旅して、まだ見ぬ景色を目にしたときもだ。

今でも、生徒たちが「想像を超える何か」を魅せてくれるとき、鳥肌が立つ。僕はそこに、希望を見ている。未来を創るという自負を持って、種まきをしているのだ。それが、僕の“トリハダ”であり、原動力になっている。

言うまでもなく、最低限度の協調性や社会性は必要である。しかし、これだけは覚えておいて欲しい。学校では未だにみんなと同じであることが良しとされる“空気”があるが、社会ではみんなと異なる発想を持った人が重宝される。

みんなが進む道が、君にとって良いかどうかは別問題だ。「異質の他者」の存在を認めろ。認めることができなければ、君が「異質の存在」になることはない。

同質な人間と群れるな、異質の他者と交われ。同質な人間とばかり過ごしていると、視野は狭まり「みんなと同じ人」にしかなれない。

そして、「何とかなる」という根拠のない自信が持てたのなら、あとは自分がワクワクする道を進めばいい。道中、コケたって大したことはない。また立ち上がって、進むだけだ。難の無い“無難”な人生を歩むか、それとも有り難い人生を歩む勇気があるか。自分の心に、ウソはつけない。

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