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自分の“好き”を信じろ

最初の記事は、シンプルな考え方だけど、簡単そうで難しいこと。ちょっと回りくどいけど、付き合ってもらえれば嬉しい。

答えを「待てない時代」

小学生の頃から勉強に励み中学受験を乗り越えた君は、本当にすごい。自分の小学生時代を振り返れば、野球をやるか、ドラえもんの絵を描くか(笑)くらいの、将来設計も何もないフツーの短パン小僧だった(上の写真的には、あんまり今も変わらないかも・・・)。

しかし、ある意味、学校社会で「テスト慣れ」している僕たちは、幼い頃から問題を解くことを求められてきた。瞬時に解答を導き出す訓練を繰り返すうちに、「すぐに答えが欲しい症候群」になっている恐れがある。

何もこれは受験だけのせいじゃない。高度情報社会の現代、大体の知識はグーグル先生が答えてくれる。スマホが速度制限に引っかかればイライラが増し、公共WiFiを求めてフラついているかもしれない(笑)

かくいう自分も、格安スマホに替えてから、電波が入らないと「イラッ」としてしまう瞬間がある典型的な現代人である。ああ・・・悲しいかな。人間、一度便利に慣れてしまうと、不便には戻りにくいもの・・・。

「答えを求めすぎる」という話に戻そう。もちろん、物事を考え、しっかりと答えを出すという訓練は大切だ。「想像と妄想は違う」と、某先生が話していたが、僕もそう思う。人に何かを伝える上では、「たしかにそうだね!」という客観性・論理性はとっても重要だ。どんなに「自由に考えてみよう!」と言われようと、考える力がなければ自由になんて考えられない。


「生き方の正解」が消えた時代

もっとも、「自由に考えてみよう!」と急に言われて、アタフタする人もいるかもしれない。多感な時期を過ごす中高生になると、知らぬうちに他人からの目が気になり、周りに合わせるようになる。とりわけ日本という社会には「出る杭は打たれる」とか「村八分」とか「赤信号、みんなで渡れば、怖くない(いや、怖いわ!!)」といった価値観がはびこっている。さらには、一般に学校では協調性がある人が優等生と見なされ、周りに合わせることが大事だと習う。慣れていれば別にしても、急に「自由に」とか言われると、どうすればいいか分からなくなる。

なぜ、このような国民性になったかということを一言で言い表すことはできないが、日本人が古くから稲作農耕民族として「村」を集団で守ってきたこと、かの有名な聖徳太子が十七条の憲法の第一条冒頭で「和を以て貴しとなす」と記したこと、高度経済成長期に日本国民の中に「一億総中流」という横並びの価値観が浸透したことなどが考えられている。

特に、高度経済成長期には、ある意味で「生き方の正解」があった。大学進学率は10%程度だったが、大学進学者の方が少数派だったから、大学に行っていない側の人たちにも不平等感がなく、日本全体が経済成長していたから年々給料は増え、社会全体が希望に満ちていた(「格差」と「幸福」については、別の機会に書きたいと思う)。

けれど、いまの時代は違う。日本経済はバブル崩壊とリーマンショックを経験し、東日本大震災では列島の災害リスクを露呈した。地方では過疎化が進むだけでなく、日本全体の人口も減少しており、日本全体の経済規模は成長し続けるとは言い切れない。アメリカほどではないにせよ、かつて「一億総中流」と言われた日本国内の格差は広がり、日本の子どもの7人に1人は十分な教育を受けられていないとも言われる。結果、(偏差値的に)“良い”とされる大学に進学できず、格差が再生産される確率が高まる。経済格差よりも深刻な「希望格差」社会に突入しているのだ。

さらには、やれAI技術の進展だ!やれ移民労働力の流入だ!で「将来、君の仕事はなくなるよ~」と脅される。不安をあおられ、ますます目の前の「役立ちそうなこと」に飛びつく。「学歴」という仮面を身につけなければ、やっていけないような気がしてくる。「素顔の自分を信じて」と言われても、額面通りに受け取れない人もいるかもしれない。

誤解を招いてはいけないので断っておくが、僕は学歴社会に否定的な訳ではない。学生を採用する企業にとっては、確率論的に優秀な人材を確保できる仕組みだし、学生にとっても「自分の努力次第である」という分かりやすい指標になっているからだ(上記の通り、学習機会の平等性には課題が残っているが・・・)。

たしかに、「学歴」は就職活動においては大事であることに違いない。けれど、いざ社会に出たら大した問題ではない。せいぜい「へぇ~、○○大学なんてすごいね!」と言われ、鼻高々になれる程度のことだ。それよりも問われるのは、その人の「学習歴」だ。学習歴とは「どんな想いを持って、何を、いつ、どこで、誰と、どうやって学んできたのか」ということである。


自分の“好き”を信じる

学歴は偏差値で序列化されるかもしれないが、学習歴には「答え」がない。だから、「何を学べばいいですか?」と聞かれても、「学びたいことを学べばいい」としか言いようがない。「ボク(ワタシ)は、何を学べばいいの?何が好きなの?」とスマホに打ちこんだところで、Google先生は答えてはくれない(最近は検索履歴から「オススメ」を提案してくれる恐ろしい時代になっているが・・・)。

2018年夏、NHKの『プロフェッショナル~仕事の流儀』という番組で、「子ども大学」という企画がスタートした。第1回は、スナック菓子メーカー湖池屋の佐藤章社長。小学生が社長とともに「スナック菓子のヒット商品をつくる」というテーマで番組は進んでいく。

番組の中で、ある男の子がクラスメイトにアンケートを取って、もっとも人気のあった「梅味」で商品開発を行おうとする。しかし、佐藤社長は男の子に問いかける。

「本当に、その味を作りたいの?」

男の子は悩んで悩みぬいた結果、お母さんの思い出でもある「味噌汁味」のポテトチップスを作ることに決めたのであった。佐藤社長は、企画の最後に小学生に向けてこんな言葉を残している。

「子どもの時の気持ちを忘れないでいようと思いました。心が動くかって大事でしょう?人間は機械じゃありません。感情があるよね。感情を動かせるのは、大変すばらしい仕事だと僕も思っているので、これからも僕はそれを大事にしていきたいと思いました。だからみんなにお礼です。ありがとうございました。」

子どもの頃は「好きなことをやっていた」はずなのに、いつしか「やるべきことをやる」「周りがやっているからやる」に変わってしまった人は少なくないかもしれない。

大人は言う。「やるべきことをやらないと、将来困るよ」と。それは、嘘ではない。「成し遂げたい目標があって、それを達成するためにはやりたくないことも我慢する」という姿勢は大切だ。でも、その先に目指したい何かがなければ、本当にその我慢は必要なのだろうか・・・?


「自分は何をしたい?自分はどうしたい?」

立教大学の中原淳准教授は、日本人が「グローバルリーダー」になりきれないたったひとつの理由として「自分は、社会をどうしたい?」かを考えていないことを挙げている。自分自身がどうしたいかが分からなければ、何を成し遂げたいか、どうやって成し遂げればいいかは、到底分からないだろう。

急に「将来、君は何をしたい?」と問われても、ほとんどの人は分からないだろう。考えてみれば当たり前である。世の中には星の数ほど仕事があって、でも中高生の君が知っている仕事の数は、ほんの一部なのだから。

だからと言って、世界中の仕事全部を把握してから、どれをやるかを決めようなんてのは、あまりにも非現実的すぎる。それじゃまるで「目的地までの信号が全て青にならないうちは、出発したくありませんよ」と言っているようなもんだ。待っている間に、周りの人たちに置いてきぼりにされてしまうだろう。


自分で決めることがイチバン大事

人から押し付けられた目標で、最後まで頑張り切れる人は少ない。なぜなら、それは「忍耐」で「無理強い」している状況だからだ。「ライバルに負けたくない」とか「人から良く思われたい」とかっていうのも一時のモチベーションにはなるが、評価してくれる人がいなくなったら自分ひとりで努力し続けるのは難しい。中国の春秋戦国時代における哲学者・老子は以下の言葉を後世に残している。

生きることの達人は、仕事と遊び、労働と余暇、心と身体、教育と娯楽、愛と宗教の区別をつけない。
何をやるにしろ、その道で卓越していることを目指す。
仕事か遊びかは周りが決めてくれる。
当人にとっては、つねに仕事であり遊びでもあるのだ。

好きで何かをやっている人は、それを努力とは思わない。「遊び(やりたいこと)」も「仕事(やるべきこと)」の区別も曖昧なのである。周りの人から見れば大変そうでも、本人はやりたくてやっているし、夢中になっているから時間が経つのもあっという間である。以前、部活動の部員が日誌にこんなことを書いていた。

「私たちは、外の人から見ると『ブラックだ』と言われることがあるけど、むしろそれは誇らしいことだと思う。自分は好きで部活動をやっているけど、まるでやらなきゃいけない仕事のように部活動を語る人は、むしろ可哀想・・・。」

社会ではこれだけ「ブラック企業」「働き方改革」と叫ばれているので、その声は無視することはできないし、法令を遵守する必要があるのは言うまでもない。まして、日本は先進国の中で労働時間が長い割には生産性が低い。様々な点において効率UPを目指し、“時短”することは喫緊の課題だ。「ブラック部活」は今や生徒だけでなく先生にとっても深刻な問題で、やりたくもない部活動の顧問になって土日を潰すなんて、地獄以外の何物でもない。

一方、血の滲むような努力をして、世界で活躍するスポーツ選手や科学者は大々的にメディアで取り上げられ、ヒーロー扱いされる。彼らは、まず間違いなく「ブラック」だなんて思わないはずだ。しかし、ひとたび自分の話となると、「僕はそんな人たちとは次元が違うから・・・」という人が必ず出てくるだろう。

本当にそうだろうか?ちょっと厳しい言い方だが、それは暗に努力しないことで、自分を守っているに過ぎない。いつまでも自分のことをきっと「YDK(やればできる子)」だという幻想でかばっているだけなのだ。個人的意見を言えば、「YDK」はやり切った後に使ってもらいたい言葉だ。

もちろん、努力すれば誰だって報われる訳ではない。大坂なおみや大谷翔平になれる訳ではない。それでも、今よりもっと大きな自分に出逢えるかもしれない。

では、一体どうやったら自分の“好き”を(再)発見し、無我夢中で打ち込むことができるのだろう。ここまで語るのに、既にだいぶ長くなってしまったので、次回に稿を改めたい思う。

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