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また君に逢いに行こう。~ギャンブル依存症、自殺未遂。そこから自分を取り戻すまでのお話~【第1章・思い描いた未来。目の前の現実】

2018年8月。

数週間ぶりの雨が降りしきる午後、僕は都心にある駅でそのタイミングを見計らっていた。

まるでレースが始まる前の陸上選手のように気分が高揚していた。全てを覆いつくす闇の中で、眩く白い光を放つスタジアム。選手の名前がコールをされ、右から左へ、そして後方にいる何万人の観衆に向けて手を振る姿が中継カメラを通して巨大スクリーンに映りだされる。何故、そんなイメージが頭に浮かんだかは分からないけれど“一世一代の大イベント”という意味では間違っていないな、と今では思う。

飛び越えなければならないその柵は自分の胸の高さにある。想像していたよりも大きいな、と思いその場で軽くジャンプをして筋肉をほぐしてみた。
小さいころから何度も耳にした聞きなじみのあるアナウンスが場内に響き、僕はそれがやってくる方向を真っすぐに見つめた。


これが上手くいったら、全てのことから解放される。
両手を挙げて「頑張るぞ」と声を上げたい気持ちを抑え、僕はその瞬間を待ちつづけた。 

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表現をすることで、何かを伝えることで、誰かに喜んでもらいたい。
それが僕にとってのアイデンティティだったと思う。
数少ない幼少期の記憶は、学童クラブで教えてもらったダンスを父の前で一心不乱に踊っている自分の姿だ。朝から晩まで郵便局で働き、休日は思い切り羽を伸ばしたかったであろうに父を無理やり起し、下手な踊りを見せる。彼からすればひとたまりもないことだったであろう。それでも満面の笑みで、拍手を送り「頑張った。とても素敵だった」と言う父の笑顔は僕の頭に強く焼きついている。

中学生の時には自作の小説を書き、高校生に入ってからはバンド活動に打ち込み自作のCDを作って販売した。どれもアマチュアだけれど、小説を読んでくれる人の反応やライブに来てくれる友人たちの声を聞くたびに心が満たされていた。

大学一年生の夏、ふとしたことがきっかけで始めたボランティア活動をする中で戦争孤児達に出会う機会があった。人生で初めて会ったアフガニスタン人の少年も、アメリカ人の青年も、僕達日本人も交じり合って、歌い、踊り、思い切り笑った。

「こんなに世界は美しい!世界はもっともっと平和になれるはずだ!」

と感じたその思いをきっかけに僕は何かを伝える仕事、つまり「メディアの世界に行こう」と決めた。写真を選んだのは父の趣味がそれだったから、という単純な理由だ。

アルバイトをしては海外でボランティアをしながらその地域に住む写真を撮る、という大学生活を送り、就職活動の時期に差し掛かると「大きな通信社や新聞社に勤めると自由に情報発信が出来るようになるには時間がかかる」という話を聞いた。そもそも無名大学に通い、就職活動を始めるまでに功績を作ったわけでもない僕が採用されることは考えづらく、当時の僕はすぐに作品を撮るために世界へ飛び出したいという衝動を抑えきれず就職活動を辞めた。

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大学を卒業後、学生時代からお世話になっていたコンビニでアルバイトを続けては海外へ行き、自分の撮りたい題材を追う生活。英語があまり通じない国では友人を介して通訳を手配し、見つからない場合は日本語学科のある大学の前で座り「僕、日本人だけど友達になろうよ」と声をかけた。スラムなどの危険な地域や自然災害にあった地域に飛び込み、ひたすらにファインダーを覗いた日々は自分さらに特別な存在になったように錯覚させた。何一つ成し遂げていないにも関わらず自らを“報道写真家(ドキュメンタリーフォトグラファー)”と名乗り、小さなギャラリーで写真展を行った。

「若いのに、世界で写真を撮るなんてカッコいい!」

名前も顔すらも思い出せない他人の甘い言葉は心の奥底に深く、色濃く染み込んでいった。

写真展に合わせトークライブを開いて友人を呼び「写真で世界を変えたい」と語る。
「ご清聴ありがとうございました」と頭を下げたあとに聞こえてくる耳心地の良いあの拍手の音は今でも脳に焼き付いている。

『僕の人生は特別なものになるに違いない』
この時の僕は自分の未来が光り輝くことを信じていた。
嘘偽りも、一点の曇りもなく心からそう信じていた。


※本作品は個人の記録であり、ギャンブルそのものを否定する意図をもって制作されたものではありません。

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