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夢を叶えた男の話

石田昌隆さん(@masataka_ishida)という写真家がいる。世界各地のミュージシャンの撮影と執筆で著名な方だ。Instagramで親しくしていただいている。なぜか使ってきた機材が酷似していて、ストロボや露出計やストラップの好みが同じ。なんとタブレットと携帯電話の機種まで同じなのである。考え方が似ていて嬉しくなる。

石田さんの今朝の投稿で雑誌「MUSIC MAGAZINE」2023年11月号にKODAMA AND THE DUB STATION BANDの写真と記事が掲載されていることを知った。

このバンドのベーシストである河内洋祐(この写真の右から2人目) (コウチという名で活動しているが、ここでは呼び慣れた河内という表記で書く)とは縁がある。あちこちで断片的に書いてきた。今朝の石田さんの投稿にコメントしたら、KODAMA AND THE DUB STATION BANDや石田さんのファンから予想外の「いいね」をいくつか頂いた。石田さんはこの写真の撮影時に、河内に私の話をしてくれたらしい。

書ける範囲で書いてみよう。

私は大学卒業後ちゃんと就職はせず、写真の通信社の職を得た。たまに撮影に行くこともあったが、主な仕事は週2回の夜勤の暗室マンだった。昼間は他でアシスタントとして修業をしながら、徐々にフリーのカメラマンとして仕事を増やしていった。その通信社は居心地がよく、足掛け9年も在籍した。

夜勤は私のようなカメラマンの他に、学生アルバイトも多くいた。河内もその1人だった。日芸写真学科の確か6年後輩だったと思う。彼が19歳くらいの時だから私は25歳前後だった。多少は撮影で飯が食えていたので、私は一丁前に先輩風を吹かして河内にビールを買いに行かせて偉そうにしていた。彼は物静かで口数が少なく、いつも我々先輩の話を静かに聞いていた。

仕事は主に海外から入ってくる写真の配信業務である。私が入った当時はまだ受信機もフィルム現像もプリントもすべて手作業だったが、彼が入った頃はもうネガの現像までは自動現像機になっていた。親会社から写真ごとに「GS」(ジェネラルとスポーツ)・「G」(ジェネラル)・「E」(イングリッシュ)・「ボツ」と指示が来て、それぞれにプリントする枚数が異なる。新聞の締め切りに合わせて暗室のプリンターで印画紙に露光を与え、それを何十枚もトランプのように持って薬品に入れる。

ヨーロッパなどでオリンピックが開催されると、時差があるために夜勤が忙しくなる。忘れられないのは1992年のバルセロナオリンピックだ。開催中のある日。私は河内とペアを組んで泊まっていた。私は27歳。河内は20歳か21歳。その夜は日本人選手でメダルが取れそうな競技はなかった。我々は深夜、リラックスして営業の長机に東スポを広げてつまみを出し、靴どころか靴下も脱いだ足を椅子に乗せ、ビールをしたたかに飲みながらテレビ観戦していた。

河内は子供の頃に水泳をやっていて、たしか平泳ぎの記録を作ったと話した。彼に解説をしてもらいながらの五輪観戦は楽しかった。仕事なんか後回しである。

女子200メートル平泳ぎ。岩崎恭子ちゃんがスタート台に立った。逆三角形の凄い身体の外国人選手と並ぶと、まるで子供が紛れ込んだようだった。「へー14歳かあ」「凄いねえ。良い思い出作れよー」「精一杯ガンバレ!」結果は皆さんご存じの通り。見事な金メダルである。「今まで生きてた中で、一番幸せです」で時の人となったあれである。マスコミも完全にノーマークだったのだ。

あれは何時頃だったのだろう。とにかく深夜で、その競技を見たら仮眠しようとしていたはずだ。「河内!ヤバイ!ビール捨てろ!」河内は流しにドボドボドボーッとビールを捨てる。私はつまみごと東スポを丸めてゴミ箱に突っ込む。じゃんじゃん電話が鳴り続ける。岩崎恭子選手のネガがノンストップで入ってくる。

当然、前述した「GS」ネタなのだが、それ以外にスポットでの購入希望が相次いだ。傑作だったのはよく買いに来た「週刊プレイボーイ」のSさんだ。Sさん「岩崎恭子ちゃんの写真ないですか?」 私「これからどんどん入ってきます」 Sさん「いや競技のじゃなくて、たとえば学校で制服姿で友達と談笑しているシーンとか」 私「Sさんたちが持ってないのに、そんなの俺たちが持ってるはずないでしょ!じゃ、忙しいんで、ガチャ」 というやり取りをよく覚えている。あのあと週プレは学校まで押しかけたかもしれない。まさにフィーバーだった。恭子ちゃん大変だったね。

話がそれた。アシスタントも何度もやってもらった。仕事は確実でミスはなかった。ただ慎重すぎて少しやる事が遅いかなとは感じた。しかし確実なのが一番だった。車の運転も上手かった。

その通信社の同僚に4人ほど音楽の趣味が一致する人たちがいた。皆でお金を出し合ってCDラジカセを買った。夜な夜な交替でDJをやり、大音量で音楽を流した。河内はMUTE BEATが大好きだった。暗室にも持ち込んで「FLOWER」と「LOVERS ROCK」を繰り返しかけていた。

誰かの送別会のときだった。いつも会社内で寿司などを取り大々的にやる。送別会が終わり、その日の泊まりの人と有志数人が残った。祭のあとの寂しさである。窓際に置かれたCDラジカセの後ろに立った伏し目がちの河内。MUTE BEATのトランぺッターだった、こだま和文さんのファーストソロアルバム「QUIET REGGAE」から「WE LOVE JAMAICA」をかけた。最高の選曲だった。

確かそのアルバムが出たばかりだったと思う。いま調べてみると1992年10月発売。そうだ!バルセロナオリンピックが1992年の夏だから、まさにあの頃だ!私の記憶力も捨てたもんじゃないな。

その頃の河内はCDショップでもアルバイトをしていた。自身もベースを弾いていた。ある時、彼は私にこう言った。「音楽の道に進みます」と。この辺はもっと書きたいこともあるのだが、プライバシーに関わるので書かないでおく。とにかく私は引き留めた。音楽で食うのは写真で食うより100倍難しい。しかし彼の意志は固かった。「どうしてもやりたいんです」

その後の彼は働きながら音楽の道を目指していた。どんな活動をしていたかはよく知らない。ライブに行ったこともあるが、だんだんと疎遠になっていった。

インターネットの時代になる。たしか2000年代初頭の頃だったと思う。2000年をピークに仕事が下降する一方だった私はヒマになり、過去の友人を検索していた。河内の名前で検索すると、何だかミュージシャンとしてさまざまなバンドでベースを弾いている。「ええ?元ZELDAのサヨコ?凄いな!」そして、何と!河内が大好きだったあの!こだま和文さんのバックでも弾いている!マジか?

それは衝撃だった。お互いに50代になった今ではそうでもないが、20代の頃の6歳差は大きいものだ。河内がこだまさんのバックで演奏するということは、例えて言うならば、私が小6のときにキャッチボールの相手をしていた近所の幼稚園生が、成長してみるみる野球が上手くなり、大リーガーとなって二刀流でホームラン王になったようなものだった。

しかしその頃の私は前述したとおり、低迷を極めており河内に連絡をすることは出来なかった。

嬉しい気持ちを伝えたかったのに。
情けなかった。

そして時が経ち。2015年になる。その数年前に私は考え方を変えて、仕事が安定していた。Twitterを始める。最初に「いいね」を押したのが河内のツイートだった。すぐさま彼は私のツイートにも「いいね」してくれた。当時は本名でやっていなかったので、彼に私の正体を明かした。喜んでくれた。

奇遇だがちょうどその頃。こだまさんの「KODAMA AND THE DUB STATION BAND」が、長年の沈黙を破り、活動再開が決まった。河内はそのバンドのベーシストになっていた。そして2015年の12月25日。再始動ライブの「Dubby Christmas」。地下の会場へと向かう階段に並んでいると、河内が来た。知人と談笑している。ドキドキした。最後に会ったのはたぶん1998年頃だから17年ぶりくらいだ。

「朝日さん!すぐ分かりましたよ」。握手をした。分厚くて優しい手だ。河内はすっかり白髪になり髭も伸ばしている。私の見た目も変わっているはずだ。涙が出そうになった。

レゲエのお客さんはクールで、始まる直前まで前の方に詰めかけたりしない。私は図々しくも最前列の少し右側。河内が立つであろう、ベースが置いてある場所の真ん前で開演を待った。ライブが始まる。河内のベースは太い音だ。あのこだまさんの後ろで、まるでウェイラーズのアストン・ファミリーマン・バレットのようにベースのネックを前方に突き出しながら河内が弾いている。くどいようだが、あの!こだまさんの後ろで!暗室で聴いていた、あの!こだまさんの後ろで!

驚いたのは最後の曲が終わってメンバーが裏に行ったあと。アンコールの拍手が鳴り続ける中。こだまさんを休ませる意味もあったのだろう。河内がマイクスタンドの前に立った。そしてMCをした。あの無口だった河内が!満員の聴衆の前でMC!信じられないことが目の前で起こっている...

何度目かのアンコールの、確か最後の方だったと思う。「WE LOVE JAMAICA」の演奏が始まった。イントロのトランペットが響いた瞬間。1992年のあの送別会のあとの河内が浮かんだ。静かにこの曲をCDラジカセでかけた河内の姿が、ステージ上の河内に重なる。涙がこぼれた。

夢を叶えた男。
俺の中ではナンバーワンだ。

その後は吉祥寺のライブハウスへ年に1〜2度は観に行っていた。しかし2020年の感染症騒ぎが始まり、しばらくライブはなくなった。その後は入場者数を絞って感染対策を講じて再開したようだが、私は家族のことを考えて行かなかった。いろんな意見があって良い。我が家ではそうした。

今月のライブも、こだまさんファンの知人から聞いていて行きたかったが、今月末には高齢の妻の母親に会う予定がある。もう普通にマスクなしで仕事も生活もしているのだが、やはり万が一を考えて行かないことにした。早く普段通りにライブにも行きたいものである。

「KODAMA AND THE DUB STATION BAND」
森さんとコウチのドラム&ベースが最高なのはもちろん、AKIHIROさんのギター、HAKASE-SUNのキーボード、ARIWAさんのトロンボーン、こだまさんのトランペット。最強のレゲエバンドであることは間違いない。

河内は照れ屋で頑固な男だ。こんな文章を勝手に書いて掲載してしまい、見つかったら怒られるかもしれない。昔っから私が出過ぎた真似をすると、たしなめられたものである。でもプライバシーには最大限配慮した。河内は6歳下なのに何だか兄貴のような存在だ。見つかるといけないから、キーワードに河内の名前は入れないでおこう(笑)。昔の笑顔の写真もとても良いんだけどな。出したら嫌がるよな。

通信社時代のあの頃。誰かが「朝日さん!RIDDIMゲットしました!」と、CDショップで無料配布されていたレゲエ雑誌を持ってくる。石田昌隆さんのヒリヒリするような写真を見て「カッケー」と言いながらCDを聴く。今ではそんな写真家の石田さんとSNSを通して知り合いになり、当時いっしょにその写真を見ていた河内が、こうしてこだまさんと共に石田さんに撮られている。

何度も書いてしまうが、私は夢を見ているような思いなのだ。


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