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ローズ×バニラ×ヒノキ 『ロマンチストで残酷な、富豪の男』

34歳。仕事はフリーランスのライターでコラムニスト。正直、金はあまり持っていない。

いや、違った。35歳だ。つい数日前にまたひとつ歳を取ってしまったのだった。
周囲の同級生たちが次々に結婚、出産、育児、マイホーム購入、離婚など人生のステージを登っていく中、俺はいまだに独り者で、愛だの恋だのセックスだのそんなことばかり黄色い声で騒いでいる。

自分の人生や仕事に不満はないが、時には焦燥感や疎外感、そして置いて行かれたような孤独に苛まれる夜もある。

そんな俺にもデートの相手はいる。
今夜のデートのお相手はなんと社長の男だ。俺の1000倍くらい金を持っている男だが、彼が誕生日のお祝いに、高級な寿司を奢ってくれるという。
約束の時間まで3時間。ということで、俺はシーシャバーで時間を潰すことにした。

ローズ×バニラ×ヒノキ=ハーレークインロマンス

この日選んだフレーバーはローズ×バニラ×ヒノキ。今回も店員さんのおすすめだ。
吸い込んだ煙は、華やかで、甘く、それでいて上品で優しい。

薔薇の香りを吐き出すなんて、なんだかとってもロマンチック。煙の向こうに見えるのは、砂漠の中に突如現れる中東の宮殿のような、大豪邸。
広い庭では噴水が水晶のような輝きを乱反射し、大輪の花が無数に咲き誇る。

薔薇の花園で手招きをするのは、浅黒い肌に、中東の白い民族衣装トーブを身に纏ったイケメン。
長いまつ毛と青い瞳で、優しげに俺を見つめている。
近づいて行くと彼はそっと俺の肩を抱く。包まれたその体からはほのかに甘い、バニラの香り。

肩を抱かれたまま、俺たちは庭園を散策する。
庭園には薔薇だけではなく、多種多様な花が咲き乱れている。彼は囁く。「全部君のために用意させたんだ」

中東の通貨はなんというんだっけ、と俺は花の香りで痺れる頭で、そんなことを思った。

蜃気楼のような夜を切り裂く1発の弾丸

場面は寝室のベッドへと切り替わる。

ゴージャスな天蓋付きベッド。シルクのシーツの上で彼は優しく俺を抱く。
美しいヒノキの枝のように美しく引き締まった、浅黒い肌にくみしだかれながら、彼は何度も何度も愛を囁く。

優しさと、激しさ。乾いた砂漠の熱風のなか、彼の汗はさっき見た噴水の水飛沫のように輝いている。2匹の蛇が絡まり合うような夜。

「欲しいものは全部あげよう」

俺にはあなた以外欲しいものはない、と思いながら、快楽に喘ぐことしかできない。
でも彼にはたくさんの妻がいる。俺はいっとき、期間限定、手慰みの愛人にすぎない。彼がいつも膝の上に乗せて愛玩しているペルシャ猫と同じだ。
彼の囁く甘やかな「全部」にたったひとつ足りないもの、それは彼自身。

それでも彼は最高に優しい。なぜなら富豪だからだ。金を持った男は優しく、ゆとりがある。ロマンスも心得ている。
豪華な邸宅と、薔薇の花と、シルクのベッドでの激しいセックス。
俺自身、この激しい彼への恋慕が本物なのか不安になる。ゴージャスな夢に酔い痴れているだけなのかもしれない。まるで砂漠の蜃気楼のように、何かの拍子にあっけなく消えてしまうのではないか。

その時。突如激しく鳴り響く銃声が、寝室の空気を切り裂く。
彼がピストルを片手に、ベッドの下に銃口を向けている。
サイドチェストにいつも仕舞っている、銀のエンフィールドリボルバー。
視線の先には、巨大なコブラの死体が転がっていた。

コブラの返り血をわずかに頬に浴びた彼の表情に、一瞬酷薄そうな影が差すのを俺は見逃さなかった。
妻の不貞から女性不審になり、夜ごと1人ずつ女性を抱いては殺していたという千夜一夜物語に登場するペルシアの王、シャフリヤールのようなその表情を。

薔薇の庭園よりも、シルクのシーツよりも、バニラのような甘い言葉よりも、その残酷な視線で見つめられたいと俺は思う。いっそそのエンフィールドリボルバーで、俺を撃って欲しい。

砂漠の蜃気楼は影を生まないものだが、その時の彼には確かに影があったからだ。
影のない男を、俺は信じない。

酔い痴れたのはニコチンか、薔薇の香りか

マウスピースを口から話すと、頭がクラクラした。
禁煙を始めて3年になるが、シーシャのわずかなニコチンで酔ってしまったのか。
それともシークとの甘すぎる逢瀬に、酔ってしまったのか。

ひどく喉が渇いて、体の芯は熱くて汗ばむくらいなのに、手足の指先が凍えるほど冷たい。
いつもシーシャは酒と合わせることにしていたが、今日はこの後高級寿司が控えているということもあるし、ホットコーヒーを注文。

中東のコーヒーは、ローズウォーターで淹れると聞いたことがある。シーシャの煙に含まれる薔薇の香りと苦いカプチーノを口の中で混ぜ合わせて、蜃気楼のような砂漠の恋の余韻に想いを馳せた。

ゴージャスで甘ったるいロマンスと、激しい愛欲さえあれば、アルコールなしでも酔えるのが色恋というもの。
35歳、独身、金はあまりない。だが俺にはもうしばらく、金や家族やマイホームよりも、素敵なロマンスというやつが必要らしい。

ロマンスを求める心は欲深さなのだろうか

さて、そろそろ寿司の時間である。
甘ったるいシークとの恋のようなフレーバーの後で、高級寿司など食べたら胸が焼けそうだ。

昼は中東のシーク。夜は日本の社長。
1日の内に富豪から富豪を梯子する背徳感にすら酔いながら、俺は次のデートへと向かう。
1番酷薄なのは、そんな俺自身なのかもしれない。

なぜならもう俺の心は、高級寿司店のヒノキのカウンターで中トロや赤貝やコハダの寿司を食べることを夢想して、だらしなく涎を垂らしているから。

その後ホテルに行くかどうかは、まぁ成り行き次第だ。
彼はどんなピストルを隠し持っているのだろう。なんにせよ俺を撃ち殺せるほどのエモノだといいのだが。

メモ:
ローズ×バニラ×ヒノキのフレーバーは、ゴージャスな富豪のような香り。紳士的で、ロマンスもわきまえている。だけど気をつけて。サイドチェストにはリボルバーを隠し持っているかも。


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