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読まれる記事云々よりも

7年以上前、わたしがフリーランスになりたての頃、とある農業家を取材する機会があった。農家さんの話を直に聞くのは生まれて初めてだった。

相手の方は当時おそらく60代後半だったか。皺が刻まれ日焼けした顔。小柄な身体にくたびれた作業着と泥のついた長靴。ところどころ聞き取れない福島訛り。わたしの中の典型的な「農家のおじいちゃん」イメージそのままだった。正直に告白すれば、そのイメージの裏には「農家はみんな善良な弱者。優しくて良い人ばかりだが、難しい話は通じない」という、まったく根拠のない思い込みがあった。

1時間ほど話を聞くうち、わたしは自分がいかに世の中を基本をわかっていないか、思い知らされた。ほぼ東京のサラリーマン経験しかない自分は、なんと偏った世界しか見てこなかったのかと。

「一次産業がダメになったら国は終わりなの。でもそれに誰も気づいていない」

農の未来について彼が強い調子で発したこの言葉は、いまでもはっきり覚えている。

わたしはその後、何人も農業家の取材をさせてもらった。自分でも、専業農家で週4日3ヶ月ほどアルバイトしたり、単発でいろいろな農作業を手伝ったりもしてきた。その程度の経験で知ったかぶりをするつもりはないが、自分なりにわかったことはいくつかある。

ひとつは、農家にもいろいろな考えの人がいる、ということだ。東京に住んでいたときのわたしは漠然と「農家」といって一括りにしていたが、栽培方法にしても機械化にしても販路開拓にしても、当たり前だが思想や哲学、主義主張は人それぞれ。農家さん、ではなく農業家と呼びたい人たちはたしかにいる。

もうひとつは、自然が相手の農業は「効率」だけでは語れないということだ。

日本の農業の衰退はいまに始まったことではなく、都会暮らしの人々とて高齢化・担い手不足、食料自給率の低下、食糧安保といった課題を知らないわけではない。その対策として、株式会社の参入、天候に左右されない工場農業、付加価値化による輸出増などが提起されるのも知っている。それらのベースにあるのは、農業とて効率化しなければ淘汰される、という理論だと思う。

たしかに、改善すべき「無駄な」非効率を漫然と続けている農家もいるのかもしれない。一方で、いつだったか真新しい野菜工場の取材をしたとき、究極の栽培効率化を実現した密閉空間には大いに感動を覚えた。が、同時に、これはもはや「一次産業」とは言えないのではないか?とも思った。

数年前の今ごろ、キュウリ農家でバイトしていたとき、茂った葉をかきわけ、曲がってネットに引っかかった実を外し、成長しすぎた実は落とし、目分量でちょうどいい大きさのものを見分けてハサミで収穫していく作業をした。流れる汗を拭きながら、これをやってくれるロボットが開発される日は来るだろうかと自問した。あんな複雑な自動車組み立て作業だって、全部ロボットがやっているではないか。

もちろん違いは明白だ。工場の自動車は100台つくってぜんぶ同じ。畑のキュウリは100本なっていればぜんぶ違う。もちろん天候も毎日毎年違う。一次産業の効率化・生産性向上にはおのずと限界がある。そういう所与の条件の下、農業家たちは頭脳と肉体を駆使して食べ物という万人に不可欠なものを生産している。

初めて農家を取材したのと同じ時期に、東北の別の場所で、ある中小企業の経営者の話を聞く機会があった。もともとは地場の燃料会社だが、木質バイオマス発電に取り組み、合わせて林業家の育成も始めたところだった。未経験の一次産業にも敢えて挑む、その理由と心意気に感動した。その社長が発したこの言葉も忘れられない。

「一次産業は簡単じゃない。でも一次産業がちゃんとしてないとその先(二次・三次)はない」

先日、わたしは還暦を迎えた。嫌でもこの先の職業人生を考える歳だ。ふらふらと思考を漂わせているうち、なぜか7年以上前のこの2件の取材が脳裏に浮かんできた。心底カッコイイと思ったこのお二人のことが。

わたしはふだん、パソコン上で文字を綴ることで収入を得ている。その文字列は、クライアントのビジネスには多少役立つかもしれないが、直接的にも間接的にも、だれの命も支えていないし地域社会の役にも立っていない。その意味ではだれにとってもエッセンシャルな仕事ではない。

でも、と思う。わたしはせめて、その文字列によって、真のエッセンシャルワークに従事する人々の言葉を伝える仕事がしたい。彼らによって命を支えられているだれもが、心に留めるべき言葉を。

読まれる記事云々よりも、そういう文章を書く機会が、わたしの努力によってわたしに与えられますように。

それが今年の自分へのバースデーウィッシュとなった。

百日紅が咲けば夏も後半

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