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私が長文 note を書き続ける理由とインスタントな世界と「正解」について

2020年6月30日~2021年6月30日の1年間、毎週1回2,000字~3,000字超のコラムを投稿し続けてきました。文章の素人が、仕事と家事育児を両立させながらも毎週これだけの量を書くのは結構大変でした。お疲れ、自分!

しかし「なぜ簡潔にまとめないのだろう?」という疑問をもった方もいるでしょう。そこで、聞かれもしないのにその謎解きを、1年間書き切った所感と共に書いてみます。

最初に

最初に、このコラムはともすれば私の親しくさせてもらっている人、尊敬している人、団体などに反意を翻す内容ととらえられる可能性があります。しかし決してそうではない事を述べておきたい。

彼の方々を敬愛し追従しながらも、不器用な私なりに無い頭をひねって、もがいて、それでもそうするしかなかった、という顛末記になります。

ただ私史上最高に過激な表現をしているかも知れません。
気に障ったらごめんなさい。

短く簡潔にわかりやすく

〇〇字以内で書け
言葉は短く簡潔にまとめる
素人の長文なんて誰も読まない
細かく、何度も、頻繁に

私が発信を始める前にいろいろと勉強し情報収集したところ、みな一様に上記のような「単純明快」「簡単明瞭」「少量・反復」という方法でアウトプットすることを「強く」唱えていました。

なるほどこれは正しそうだ。
せっかくのアウトプットも、誰にも届かなければ見てもらえず、見られてもわかり難ければ読んでもらえない。それでは意味がない。

そこで先人を見習って「短く・簡単に・頻繁に」を心がけて情報発信を試してみました。

しかしやってみると伝えたい事が何も表現できないのです。
もちろん私の力量不足に違いない。
もがいてみました。

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「伝えたい」ではなく「伝わるかどうか」
〇%しか伝わらないと心得よ
細かく、何度も、頻繁に

ああ、やっぱり駄目です。
何も表現できていない。これでは何もしていないに等しい

並行して、他の人たちのアウトプット、表現方法をどん欲に観察していました。著名人から素人まで、皆さんやはり「短く・簡単に・頻繁に」発信されています。ときには鋭い発信で BUZZ ったり、「それな」「わかる」の賛辞を沢山浴びたりしていました。

しかしある程度そうした発信を観察して気付いてしまいました。

何一つ覚えていないのです。

ほんのひと月前の発信すらほとんど覚えていません。もちろん私の記憶力のなさのせいですが、その時は目に飛び込んできても心には何も残ってないことに気が付いたのです。記憶に刻まれていない。

これでは何もしていないに等しいのではないだろうか?

世界はインスタントに寄り過ぎる

「独学大全」という788ページもある辞書のような分厚さの本が何十万冊も売れているそうです。この本は、わかりやすさとも単純明快さとも縁のない本だそうです。それでもベストセラーになっています。

なぜだろうか?

もちろん内容が素晴らしいからです。
しかし先述の「アウトプットの教え」とは相反する手法にもかかわらず多くの人に受け入れられています。鈍器本と言われる分厚い書籍が、他にも飛ぶように売れているそうです。なぜでしょうか?

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独学大全の書評に「これだ!」という理由が書かれていました。(URLを見失ってしまったので再現版です)

「〇〇が全て」「たった△△の方法」「××だけすればいい」
こうした安易に最短距離で「正解」ばかりを追い求める現代。独学大全はそうした世界へのアンチテーゼなのだ。

まさに。
私の感じていた違和感の正体でした。
どこをみても、世の中は簡潔に答えだけをインスタントに提示するものばかりを是としています。しかし他の人はわかりませんが少なくとも私が欲しいのはそれ「だけ」じゃない。

なぜなのか?
何のためなのか?
どうしてその考えに至ったのか?


そうした問いと、その解決に至る過程を求めているのです。納得感であり、思考の追体験であり、広さ深さなんです。何か月も何年も私の中で糧となる記憶なんです。

インスタント食品は美味しい。私も大好きです。
ちょっとジャンクな気分のときに食べるインスタント食品はたまらない食体験です。

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しかし毎食はつらい。
基本のちゃんとした食事がベースにあるからこそインスタント食品が美味しいのです。時間がないとき、フランクな気分のとき、新味を試したいとき。時々だから美味しいのです。

インスタントな「正解」も同じです。
アクセントとしてなら最高です。しかし「正解」コレクションにどんな意味があるのでしょうか?食傷気味で胸やけがしないでしょうか?

人の営みすらインスタントになり過ぎる必要はないと思うのです。

「正解」のない世界の「答え」

とあるインフルエンサーが、常識や世論の逆をいって成功してきた経緯を語っていました。突出した慧眼ですし、その道のりは大変だったことでしょう。尊敬しかありません。

同じ口で、ご自分を「正解」として語っていました。
そしてご自身と違う価値観を強めに「不正解」としていました。しかし既存の「正解」に沿わなかったから価値を発揮できたのではなかったのでしょうか。その方はすでに世の「正解」になりつつあります。その「正解」はご自身が古い価値観と切り捨てたような、次世代からみた古い価値観ということはないでしょうか。

正解のない VUCA の時代という言葉がもてはやされています。
しかし正解をインスタントに求める人も増えているように思います。

この矛盾に苦しみました。

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私が発信したいのは「正解」ではない。
私が私の中で現時点の着地点とした「過程」と、受け手にもそれを考えてもらう「切っ掛け」となるモノなんです。

正解のない時代の答えとはなんだろうか。
インスタントな正解じゃない表現とはなんだろうか。

好きこそものの~

私の見つけた答えは「好き」でした。

みんな好きだから、巷で流行っているから、ではない、他人に何と言われようとどんなに仲間がいなくても、それを求めずにはいられない偏愛です。

私は well-being という概念が好きです。
ライフワークとして生涯追い求める価値があると感じています。だから私の感じている「好き」を、私の琴線に触れた過程と共に「なぜそれが好いと感じたのか」を紹介する文章を書くことにしました。

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消費じゃなく賞味

8歳になる息子と会話して気付くことがあります。
彼は大好きな Youtube 動画に出てくるセリフをかなり正確に丸暗記しているんです。1つや2つじゃなく何十と。

若さの特権、短期記憶のお化けだな、と感心します。
よく詰め込み教育が批判されますが(私も嫌いです)、子どもたちの特性に合わせ出来るだけ多くのエッセンスを記憶させ、将来「好き」なものを取捨選択してもらう方法としては悪くないのかも知れません。選択肢が多いと可能性も広がります。

こうした若い人に向けた発信としては、インスタントな正解は最適かもしれないと思います。沢山覚えて好きに選択したらいい。ぜひ見つけた「好き」を掘り下げたり広げたりして欲しい。

しかし私のような凡庸な中年にはつらい。
人は歳を重ねていくと、短期記憶ではなくストーリー記憶で物事を覚えるそうです。単語ではなく前後関係を含めた文脈(ストーリー)で記憶するのだといいます。そしてストーリー記憶は短期記憶に勝る記憶法だという方もいるくらいです。

この文脈で私は「好き」を語ることにしました。
最短距離の正解では私はなにも語れないからです。コピーライターのような刺さる言葉も作れません。その技術もなく、たとえ技術を習得しても受け手が私と同じように覚えていないなら意味がないと考えたからです。

もちろん洗練されていません。理屈っぽく、長々と、他人の時間を奪い、結局まとめたら3行になる内容かもしれません。

しかしコピーライターの磨かれた言葉すら消費されてしまう時代。
消費ではなく賞味される文章を書きたいと思ったのです。

1万人に届かなくてもいい。
読んでくださった中のたった一人にでも記憶してもらえるストーリーを書こうと思ったのです。

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1年つづけてみた所感

1年間 well-being というテーマで文章をひねり出し続けていると、生活の全てに影響を与えます。これは well-being のあの要素に該当するのでは?ここで well-being のあの概念が役に立つ。などなど。思考を深めたり、着想を得たり、新結合を試みたり。日々の生活が、全てライフワークの活動になっていくんです。これは本当に楽しい体験でした。

もちろん「全てが釘に見えるハンマー」とならないように注意しましたが、それでも日常全ての有機的なつながりが見えるように思えます。人の営みの全てが幸せになるためにあるのだな、と改めて実感しました。

書けなくて逃げ出したくなる回、どうしてもうまく文章・思考がまとまらない回なども沢山ありました。もし「週1回を1年続けるのである」と決めていなかったら止めていたでしょう。締め切りやルールがあるからこそ、続けることができました。これも本当に有益でした。(投稿が締切り0分前とかもありました)

そして宣伝もしていない、SNSでつながりもない方から「すき」をいただくときに、めちゃくちゃ嬉しくなります。どこのだれとも知らない私の長文を読んでくださり、なおかつ「すき」してもらえる。本当にありがたいことです。感謝します。

なにより、頻繁に読んでくださり「すき」してくださり、さらにコメントまで書いてくださる皆さんには感謝しかありません。1人でも読んでくださる人がいるからこそ続けてこれました。ありがとうございます。

おわりに

私の妻は商業小説家です。
彼女にこの想いを相談した時「3,000文字は短いと思った」と言われました。つまりそういうことなんです。反論もあるでしょうし、下手な文章をだらだら読まされることほど苦痛なことはない、という意見もあります。それでも長い文章がご褒美、という人も一定数いるのです。

これが正解などと言う気はさらさらありません。

繰り返しになりますが「短く・簡単に・頻繁に」を否定している訳ではないのです。マーケティングやブランディング的な観点でいえば、理にかなっていると感じています。著名な方々も広報や集客、ファンをつなぎとめる手法として利用しメインコンテンツは骨太という方もいらっしゃいます(そうじゃな方もいますが)。

かく言う私も、マーケティングやセールスの手法としては世の正解に習いたいと思います。でも私のメインコンテンツは note です。ここは骨太でありたいな、と思っています。

私の勝手な感想ですが「ここで終わり?もっと読みたかった、見たかっな」と思うことが驚くほど多いんです。尻すぼみコンテンツが本当に多い。

もちろんショートショートは素晴らしい。
最初から短い構成のコンテンツはいいんです。でも明らかに向いてない内容を無理にフォーマットに当てはめてないでしょうか?盛り上がって話が広がりそうになり「なるほど!それから?」というところで終わることが多いと感じています。無理やり○○字以内、〇分内に納めたかのように。

方法論にとらわれずもっと自由でいいんじゃないかな。
楽しくやりましょう。
1年目の答えです。

おまけ

1年前にあいまいに感じていた違和感について、最近、するどいご意見を拝見するようになりました。いくつかご紹介します。

■「遅いインターネット」の著者:安斎勇樹さんのコラム。なかなかの読み応えですが、さすがの洞察と切り口です。

■最近の大学生は最短距離でオタクになりたがる。という現象を掘り下げたコラム。シリーズを通して読むとなかなか考えさせられます。


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