「世界」の中心
今日はちょっと「世界」の中心について考えてみたい。
何もこれは地理的な世界の中心ではないし、
世界の中心で愛を叫ぶわけでもない。
よく、
「この人は自分の世界中心で回ってるな」
みたいな言われ方がされることもある。
そういう人と「世界」の距離感に関わる話で。
それでもよくわからないと思うのでまず自分の結論から言うと、
「自分の世界の中心は自分であるべき」
という考えを片手に持ちながら、
「世界の中心は自分じゃない」
という考えをもう片方の手に持つという感じ。
「自分の世界の中心は自分」
心の優しい人ほど、ここの部分を蔑ろにしてしまうんじゃないだろうか。
「誰かのために」と思って行動をすることはとても尊いことで、素敵なこと。
でもそれは「誰かのため」が結果的に「自分のため」になっているという関係性と、そもそも自分がある程度満たされているという前提があってこそ成り立つ式関係だと思っている。
かの有名な、フローレンス・ナイチンゲールも言っている。
と。
この考え方が綺麗ごとであることは承知の上で、
そもそも私たちは”自分”が幸せになるために生まれてきたし、今生きているんだと思う。「幸せ」という言葉は実に抽象的なものではあるけれど、その抽象さを忘れさせるくらいだ。
だから”自分”という世界の中心は自分であってしかるべきで。
人を助けたいと思った時は手を差し伸べればいいし、
美味しいものが食べたいと思った時は美味しいものを食べればいい。
逃げ出したいと思った時は逃げるという選択肢もあってもいい。
もちろん「そうは言っていられない」という状況があるのは百も承知だが。
「世界の中心は自分じゃない」
一方で「自分の世界の中心は自分」であることの解釈を間違っちゃいけなくて。これは別に「世界の中心が自分」というわけではないということ。
自分が自分の世界の中心であることと同じように、他の誰かにとってもその人の世界ではその人が世界の中心である。つまり、みんな「その人の世界」の中心で。ここの距離感はしっかり持っておきたいもの。
生きていれば自分の思うとおりにいかないことばかりで、納得できないことも時折ある。”理不尽”という言葉で片付けちゃいけないこともあるけれど、そう定義して納得しなきゃいけない時もある。
もちろんその状況に対して一石を投じることは出来る。ただすべてが自分基準で物事が進むわけではないということも、脇にはおいておきたいもの。
「世界」を基準としたこの二軸を持っておくことで、自分にも周りにも優しくなれるんじゃないかなぁ、とふと思った。
という世界の中心のお話。
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