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自分なりの ' 答え ' を出す習慣

自分の意見を持つ、って簡単なようで難しい。

意見って持っていても外に出さなきゃ存在していないのと一緒で。
でもそれを外に出すということは、そこに責任が伴うわけで。

自信がないとそこに責任を持つことが難しいから、責任を負いたくないがために誰かの意見に便乗することってあると思う。

便乗してもらうことは相手にとっては都合がいい。自分の思うとおりになるのだから。自分にとっても楽だ。多少責任から逃れることができるのだから。

でもそれだといつまで経っても’ 自分で考える力 ’ってつかない。

「〇〇についてどう思いますか?」「△△は今どうなってますか?」

などと質問されたとき、パッと答えが出るかどうか。これってもう「考えてきた量」がものを言うと思っている。

そう言い切れるのは、自分がかつて自分の意見を持つことから逃げていたがゆえに自分の考えを持つということが苦手だったから。


これって、答えある問いに対しての対応とは違ってくる。

学生時代は答えある問いに対して、いかに適切な答えを導き出せるかが求められていた。これはどちらかというと得意だった。それが求められているとわかっていたから。

だけど社会に出るとそこの基準が変わってくる。

答えがある問いに対しての答えは、インターネットが答えを導きだしてくれるからだ。AIが発達して、ChatGPTなんか質問したら一瞬でスラスラ~と答えを出す。いくら自分が答えを導き出す力があったとしても、AIに勝るほどのスピードではない。

社会に出てより必要なのは、決まりきった答えのない領域に対して、いかに自分なりの答えを導き出せるか、なんだなとヒシヒシと感じている。

しかもそれを、自分だけが分かっていればいいんじゃなくて相手がわかるように説明する力が必要になる。超難易度高い。

調べても「これが答えですよ~」という顔をした検索結果は出てこない。「答えの顔をしたヒント」がたくさん転がっている。結局は転がっているヒントの数々から、自分なりの根拠でそれらを結びつけて自分の答えを導き出さないとなんだ。

時間は待ってくれない。

学生時代より締め切りは厳しい。自分なりの答えを導き出すサイクルを高速で回していかないといけない。

もうこれって、「自分なりの答えを出す回数をいかに増やせるか」に尽きるんだなと思う。

・誰かの意見に対して便乗するとしても、「じゃあなんで便乗するのか」まで考える。
・この名言いいな、と思ったときも「なんでいいと思ったのか」まで考える。
・日常的に気になった部分をメモして、「なんで気になったのか」まで考える。

これを堅苦しいと捉えるか、面白いと捉えるかは人によって様々だと思うけど、’ 自分を知る 'という意味合いではめちゃくちゃ面白いことだと思う。

この繰り返しによって自分なりの思考の基準というものが見えてきて、「こういう問いが来たときは、これを基準に考える」みたいな軸ができてくるはず。結果思考の整理のスピードが爆上がりして、答えを導き出すまでの時間が短縮されるんじゃないかな、と。

答えが正しいかどうかなんて、自分が握っている部分じゃない。
だったら早く自分なりの答えを出して、たくさんの回数壁打ちして相手とチューニングを合わせていった方がよっぽどいい。


自分なりの答えを出す習慣、大切にしていきたい。


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