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消去法じゃなくて”積極法”で選びたい

皆さん消去法で何か物事を選んだことはないだろうか。
ちなみに私はある。

パッと「あの時、、」というのは出てこないんだけど、出てこないということはそれくらい日常と化してしまっているのかもしれない。

「~~でいいや」みたいな。

でも冷静に考えて、それってあんまりよくないよなって思う。
こういったことをいちいち考えだしたらキリがないのかもしれない。だけど消去法で選ばれる/選ばれないそれぞれには、それぞれの背景があるわけで。

それらを「こっちの方がまし」というのは、選び方の1つとして理にかなってはいるが推したくはないなと。

じゃあどうするかっていうと「積極法」なわけで。
あ、大前提、「積極法」なんて言葉があるのかはわからない。ただ消去法の反対としてわかりやすい言葉が何か考えた時に浮かんできたのが積極法だった。


自分が考える積極法って「~でいいや」じゃなくて「~がいい」だし、「AのBという部分がよくないからCにしよう」じゃなくて、「AのBという部分がいいからCにしよう」みたいなこと。

何か物事を選ぶときに、わざわざ誰かを下げる必要ってないと思う。
誰かが、何かが傷つくようなことをわざわざする必要ってないと思う。

何が悪いから選ばないんじゃなく、何がいいから選んだ、で。
だってネガティブは誰も得しないもん。
しかも粗探ししだすと、もう物事をそういう目線でしか見れなくなっちゃうし。

たしかに「物事に対しての疑いの視点を持つ」ってことは大事だと思う。疑うってことは考えるということだから。鵜呑みにはしないということだから。

ただ、疑うことと粗を探すことは違う。ここは勘違いしたくないなと。


今ネガティブな視点だけをピックアップしたけど、もちろんそれだけじゃなくて。例えば「どれでもいい」とか「なんでもいい」みたいなものもそうだと思う。

それを言った時点で会話は終了だし、その先何もつながらない。
ここをせめて「どっちもいいね」に変えるだけで、さらにそこから「じゃあどっちにしよっか」になる。考えるのも楽しくなる。

ほんの些細な違いだろうし、言葉遊びみたいなことなのかもしれないけどそういったところの配慮や意識って持っていきたいなって思う。


何はともあれ、消去法じゃなくて積極法。
選ぶ基準をそこに合わせていきたいな、って。


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