見出し画像

「出来る」人がすごいのか?

「出来る人がすごいのか?」


という問いに対し、私の中では「はい」と「いいえ」が同時に存在する。いきなり矛盾したことを言っているようだが、少し言語化していきたい。


画像1


「はい」の場合

こちらはどちらかというとイメージしやすい方ではないだろうか。

「出来る人=すごい」、結果として見えるから実にわかりやすい。われわれはわかりやすい部分で物事を判断することが多い。それに”情より結果”が求められることの方が多い。そしてそれ自体間違ったことではない。

それに生まれつき天才の人も一部はいるだろうが多くの人は最初は「出来ない」から始まっているはず。出来るようになるまで努力をした背景を考えると、出来る人=すごいの枠組みは間違っていない。

自分は天才じゃないのでわからないのだが、天才には天才の悩みもあるのかもしれない。


「いいえ」の場合

次に、出来る人がすごいのか=いいえ、の場合を考えていきたい。

これは補足の言葉をつけるとしたら、「出来る人だけがすごいわけではない」となる。もちろん出来るに越したことはないが、今は出来ていない人でもすごいと思える人はいる。どういうことか。それはどういった人か。これは少し上記と重なる部分もある。

・それは「出来ていない」事実を真摯に受け止め、出来るようになるために行動できる人。
・苦手なりにも楽しみ方を見つけ、全力で取り組める人。

今自分で上の2つをうっていて、その人たちの映像が頭に浮かびました。

例えば前者の方。「出来ていない」事実を真摯に受け止め、出来るようになるために行動できる人。

私は普段、脳卒中や身体障害の方への就労移行支援を行う場所で勤務をしている。訓練の一環としてご利用者様共通での「聞き取りの課題」を行うことがある。

脳卒中ということで、なかには失語症の方もいる。失語症の方にとってケースは様々だが、「文章を聞き取ること」「理解すること」「メモを残すこと」それぞれ苦手な人もいる。

結果だけ見ると10問中1点だったり、0点のときもあった。

普通だったら「出来ない」と言って投げ出したくなってもおかしくない。でもその方は違った。出来ていないという事実は自分でも把握していながら、それでもなんとかメモしようと、答えようと毎回必死に問題に取り組んでいる。その結果、0点や1点だった点数たちが2点、3点と上がってきている。

「10問中の、、」という数字の絶対性で見たらすごくないのかもしれない。でもその人の過程としてみたときに、この点数の上昇はものすごい。そして絶対にこれからも伸びていく。「出来ていない」中でもどうすれば出来るようになるか、必死に考え行動に移す姿勢はとても学ぶものがあるし、出来るようになるサポートをしていきたいと思う。


もう1つ、後者のケース。苦手なりにも楽しみ方を見つけ、全力で取り組める人。

これはある運動がそこまで得意ではない(自称)と言っている人が浮かんだ。人は得意があればそりゃ苦手もあって、そういうもんだと思っている。だけど出来れば苦手なものは隠したくて、触れたくなくて、遠ざける傾向にある。

それにこれは偏見もあるが気だるそうにやって「別に本気じゃないし」とか、「苦手だからやりたくない」と不貞腐れるとか。あり得ない話ではない。でもその人は違った。全力やった。全力で楽しんだ。

何かの公式な大会で、勝ち負けにこだわるような環境なら「出来る」に越したことはないけれど、そうじゃないときに大切なのは「出来る/出来ない」じゃなくて「楽しめるかどうか」だと思っていて。最終的にみんなで笑っていればオールオッケー。苦手はみんなでカバーすればいいだけの話。そこに温度感の違う人がいれば一気に全体の空気が持っていかれる。

人間、自分の苦手や弱みは隠したい生き物。だからそれを受け入れながら全力で楽しめるその人のことを、私はめちゃくちゃすごい人だと思っている。



ここまで文章を書いてきて、改めて「すごい」って実に抽象的な言葉だなと感じる。日常の中で当たり前のように使われるけど、多くの場合は日の目を浴びるような結果を残した人・モノたちに使われている。

それもそうなんだけど、実際はそれだけじゃないと思っていて。

この先すごい結果を出すための過程にいる人だったり、苦手と真摯に向き合いそのうえで全力で楽しめる人だったり。

つまりは「目の前のことを一生懸命頑張れる人」がすごいし、カッコいいんだと思った。



私もすごい人になりたいし、そうであり続けたいな。

この記事が参加している募集

今後の記事の質向上のための資金として使わせていただきます!