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〝 会話をする努力 〟

最近すごく印象に残ったSNSでの投稿があった。

「友達でも恋人家族でも、’ 会話をする努力 'をしてくれなかった瞬間、おしまいだなと感じる」

恥ずかしながら自分が常に「会話ができているか」ということに関しては、絶対できているとは断言できない。自分がしていると思っていても、相手にそう伝わらなかったらそれは「してない」と一緒だから。

でも努力はしている。


そもそも’ 会話をする努力 ’ってなんやねん、という話がある。

私が思うにそれは「対等な会話関係か」だと思う。
もちろん”対等”って、位の意味での対等じゃない。友達や恋人、家族と話すときは言わずもがなだが、例えば先輩後輩、上司部下、先生学生これらの「定義としての上下関係」がある状況でも「対等な会話関係」は築けると思っている。

では’ 会話をする努力 'がされていると感じるときとされていないと感じるときの違いはないんだろう。

「相手の中での会話のゴールが第三者的にも丸見えのとき」、会話がされていないと感じる。

例えば、何か言い合いになったとき、
「思っていることがあるなら黙ってないでちゃんといいなさいよ」
と言いながらも、相手の中で(悪いのはあなただ)と決まっているとこちらの言い分には全く耳を貸さない。

言われた通り思っていることを言ったとしても「でも、、、」という反論が返ってくることが丸見えのときがある。だから「どうせそうなるなら、」と思っていることを言えなくなる。そうするとだんだん会話が減っていく、というのはよくあることなんじゃないだろうか。


また別のパターンで言うと、昔の友達かSNSつながりで誰かから「話しましょうよ」となったとき、こちらが”会話”をすることが楽しみでやっている中で、
「でさ、今日話をしたのが実は〇〇を紹介したくて、、、」
みたいな、『マルチ商法』とかもっと平たく言うと『営業』みたいなことを言われたとき、その魂胆が透けて見えたとき、

「あ、最初から自分と話すつもりはなかったんだな」

と急に寂しい気持ちになる。これって今わかりやすい例を挙げたけど、仕事における営業活動全般に言えることなんじゃないか、とも思う。

自然と誘導されてこちらから相手を求める、みたいな状態に持っていくのが優秀な営業だなと感じる。・・・・別に営業のプロでも何でもないし、そんな話をしたいわけじゃないからここでストップ。


だから〝 会話をする努力 〟って、〝 対話をする努力 〟なんじゃないかな、って。

相手の話を聞いてそれに対して自分の言葉を返す。提案するにしてもいろんな手札を用意しておく。

答えが出なくてもいい。「話し合う」ってことが大事なんだと思う。自分の話を受け止めてもらえてる、ってことが大事なんだと思う。


何よりも自分自身に、自戒を込めて。
〝 会話をする努力 〟大切にしたい。

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