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言葉はお守りのようなもの

「○○とは」なにか。

そういった議論ってあると思う。
特に抽象的な言葉に対して。

成長とか、成功とか、優しさとか。

普段何気なく使う言葉、ついつい頼りたくなる言葉。汎用性の高い言葉。それらの言葉をその人がどのように捉えているかは結構興味深い。

そこには決まりきった定義ってなく、100人いれば100通りの答えがある。

100人いれば100通りの答えがあるからこそ、そこにその人の答えがない場合、「ただ単語として使っているのかな」と思うこともある。




先日『勝手な決めつけかもよ?だれかの正解に縛られない「解釈」の練習』(阿部広太郎・著)という本を読んだ。

そこで「言葉とは」についていくつか書かれていた。

「言葉とは勇気である」
「言葉で取っ手をつくる」
「言葉とは枕である」

それこそ様々な解釈があって面白く、そしてそのどれもが納得させられる内容だった。

じゃあ自分にとって「言葉ってなんだろうかな?」って考えてみた。

そのときパッと浮かんだのが”お守り”だった。



正直ないからといって困るものではない。

言葉そのものが何か意味をなしてくれるわけではない。お守りだってお守りそのものから何か物理的に効果が出ているわけではない。

解釈をすることで、何かに当てはめることで、何かとの関係性の中で言葉がそこに意味を持つ。

何より言葉にできる、言語化出来ているってすごく安心する。準備が出来ている状態、見えないものを言葉にすることで見ている状態。

やっぱり得体の知れないものって怖い。

そこに「言葉」という意味がつけられることによって形として見えてくる。見えると安心する。


お守りだってそうだ。

モノだけ存在してても正直役割は果たさない。

そこに「恋愛成就」や「交通安全」、「商売繫盛」という意味が加わることで価値が生まれる。そして目には見えないものから守ってくれたり運を呼び寄せたりしてくれるんじゃないか、という期待がある。


やっぱり、いざ言葉にできないものと直面すると不安だ。

一度言葉に依存してしまうと、言葉の可能性を知ってしまうとついつい言葉にできる状態に頼ってしまう。言葉にしたくなっちゃう。

お守りだって、一度お守りを持った状態で何かいいことがあるとまた次もお守りを買ってしまうと思う。なんかそれと同じ感覚。


だから私は自分の定義をする。

言葉とはお守りだ。


ずっと自分のそばに置いておきたい。



自分が大切にしているものが、改めて自分にとってどういうものなのか考える。
意外と楽しい。

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