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いい人は、どうでも”いい人”らしい

「いい人は、どうでもいい人」

どこかで見たその言葉が頭から離れない。
頭から離れないのはきっと心当たりがあるからだろう。
痛いところをつかれた、と思っているからだろう。

「いい人だよね」
「優しいって言われるでしょ」
「〇〇さんいい人だから、きっといい人見つかるだろうな」

子供のころはそんなことを言われることが多かった。

いい人だからって得をした記憶はそんなにないし、きっといい見つかると言われて見つけてもらった試しはない。いい人って、たぶんその人にとって「都合のいいひと」であり、タイミングが過ぎれば「どうでもいいひと」になるんじゃないかと頭の片隅で思っちゃってる自分がいる。

だってきっとその”いい”の部分が言語化されてないから、印象って残ってなくて時間が経てばその他大勢に埋もれる。なんだったら嫌なことをされた相手の方が相手の記憶に残るかもしれない。

こんなことを書いておきながら、そんな自分であることを選んでたのは自分自身だったと思う。子供のころは「いい人」でありたいと思っていた。嫌われない、当たり障りのない、顔色を伺って多方面に配慮して何かをする。そんな言葉選びや行動をしていた気がする。

それはやっぱり我を通すことで、誰かが離れていくのが怖かったから。でも年を重ねるごとに、当たり障りない関係だった人とはどんどん連絡をとらなくなり、嫌われないようにと配慮していた人とは関わらなくなり、気づけば少しでも我を通せていた相手とだけ関わるようになっている。

やっぱり、「いい人」って”どうでもいい人”なのかもしれない。


就職をしていろんな人と関わるようになった。
会社内の人はもちろん、就労支援のサービスを使っている方、その利用者さんの関係機関・ご家族の方、企業の方、新卒採用としてかかわる学生さんなどなど。

その人たちに自分はどう見られたいんだろう、とたまに考える。
当たり障りない、「無難」なことだけをいう”いい人”でいいのだろうか。

特にサービスを利用している利用者さんに対して。
自分が目の前の相手を「変える」ことはできないと思っているが、自分が関わる前と後で、何か変わるきっかけを与えることはできるんじゃないだろうか。

でもそのきっかけを与えるためには、優しいような、配慮に配慮を重ねたような言葉だけじゃだめだと思っていて。ちょっと耳が痛いようなことも言わないといけないだろうし、大変な環境も設定しなきゃいけない。でもそれは相手のことを真剣に考えたうえでのことであって、それを理解してもらうためにも「なぜ言うのか」「なぜやるのか」の理由を言葉にして伝えていかなきゃなと思ってる。

「いい人」と思われて忘れ去られていくくらいなら、

「ちょっと嫌な人だけど、真剣に自分のこと考えてくれてたな」

と思われた方がよっぽどいい。

好かれるかどうかなんてどうでもよくて、その一人一人が「このサービス利用してよかったな」とか「この出会いがあったから変わるきっかけができたな」みたいに思ってほしいからね。



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