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”再現性”と”偶然性”

言語化という言葉がたくさん叫ばれるこの頃。
いかに抽象的なものを具体的に言葉にして説明できるか、
そんな力が求められるようになってきた。

ただ、ひとえに「言語化しなさい」と言われても場合によっては簡単ではないこともあって。
そもそも言語化をする意味がわからないとわざわざ大変なことをやろうとは思えない。

今の時代、ChatGPTなんかも出てきてわざわざ自分で言葉にしなくてもAIが言葉にしてくれるようになった。もちろんそういった文明の利器を活用することは大事だが、だからといって自分が言語化を出来なくていいわけじゃない。

と同時に、何でもかんでも言葉にすればいいかというとそういうわけでもないとも思っている。言語化されない魅力もある。難しい。

今回は「なぜ言語化をするのか」、「言語化されない魅力はなんなのか」それらについて考えていきたい。

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言語化される魅力

言葉に出来る、説明できる魅力ってなんだろうと思う。
きっとこれは1つじゃない。

内省することが出来る、とか客観視することが出来るとか、誰かを巻き込むことが出来るとか、いろいろある気がする。でも1つにまとめてください、と言われたら『再現性』と答えるだろう。

わかりやすいのは、「商品」と「説明書」の関係性か。

例えばプラモデル。

プラモデルには完成品としての姿がある。お店のどこかに完成品が飾られていて「かっこいいなぁ」と憧れる。いざ商品を買って箱を開けてみたら入っているのは部品だけだったとしよう。どう組み立てたらいいかわからない。きっと何回か試そうとはするが、結果完成にはたどり着かず諦める

こんな時、問題を解決してくれるのが「説明書」だ。
説明書には、部品を完成品に到達させるまでの手順が言語化されている。その言語化に従ってつくっていくと、お店で憧れた完成品のプラモデルと全く同じものを自分の手で作れる。

これは「説明書」という言語化されたものがあったおかげで再現できたわけだ。

プラモデルだけじゃない。

料理のレシピだったり、仕事のマニュアルだったり、車のカーナビだったり。言ってしまえばそれはすべて「言語化」されたもので。言語化してくれたおかげで、先例の、目的のものにたどり着くことが出来る。言語化のおかげで再現することが出来ている。

ただ、「再現」というのはあくまでその名の通り「再現」だ。
期待していたものを期待通りに叶えることになる。

そこに意外性はない。再現を望む場合、意外性は求めていないが(笑)

でもすべてが再現通り、イメージ通りのことばっかりだとそれはちょっとつまらない気がする。そんな時、「言語化されない魅力」が大事になる。


言語化されない魅力

「あー、すごくいいんだけどなんか上手く言葉にできないな、この感覚」みたいなことを感じたことはないだろうか。

上手く言葉に出来ない時って、ふと頭に降りてきた感覚だったり、ふとした出会いだったり、ふと目に入ったものだったりする。大抵そういうのって深く噛み締めれば言葉に出来そうな感覚もするんだけど、そういうのは野暮だなって思ったりもする。

その瞬間になんとなく感じたから「いい」わけであって。

言語化されない魅力ってその”偶然性”にあると思っている。

再現性が「与えられた枠をみっちり埋めてくれるもの」だとしたら、偶然性は「その枠を広げてくれるもの」だと思っている。

これってどっちがいいとかじゃなくて、むしろどっちも必要で。
基本的には再現性を求めるために言語化を大事にしていきながら、たまには遊びとして偶然性に触れに行き、言語化されない魅力を体感する。そんなほどよいバランスだ大事なんじゃないかなって。


これらはいつでも出来るかというときっとそうじゃなくて。

常に目の前の対象の物事や経験に対して自分の言葉にする習慣を持ってなければ、再現性を持たせる言語化は出来ないし、かといって目の前のことにいっぱいいっぱいで自分に余裕がなければ偶然の産物にも気づけない。

言語化したい時に言語化して、言語化しなくていい時には言語化しない。

その使い分けのための技術と余裕は持ち合わせていたいものです。


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