それだけのこと、それほどのこと。
昨日Twitterでこんな投稿をした。
140字に込めた想いを、1000字以上に改めて変換。
互いが互いを察してる
組織における動きとかチームプレーだとかではいろいろな役割に分かれるものだ。その中で「意識高い人」と「意識低い人」で溝が生まれてしまうのって想像がつく。
でももったいないなと思うのは「出来る人」と「出来ない人」の間に生まれる溝だ。「出来る」「出来ない」という表現が正しいかはわからないが、ここではわかりやすく分けるためにそうする。
ここでミソなのがこの場面が”組織”であり”チーム”であるということ。
個人のことだったら自分の結果は自分に反映されるから責任の所在は明確だし、納得はいく。多少なりとも覚悟は出来ている。
だけどそれがチームになることで、自分の行動がチームの行動になる。自分の結果がチームの結果になる。
そしてそのチームの中には、チームの中で「出来る人」と「出来ない人」がいる。
「出来る人」は思う。
「チームとしての力をあげていくには、チーム全体の力の底上げが必要。今出来ていない人もどんどんできるようになってもらいたい。」
だから今は出来ていない人の奮起を願う。
それに対し「出来ない人」は思う。
「自分なんかより出来る人がやった方がいいんじゃないか。自分はむしろ邪魔なんじゃないか」
そうやって出来る人のことを考え、チームのことを考え、一歩を踏み出せず出来る人に任せる。
それに対し「出来る人」はまた思う。
「なんだ、全然やってくれないじゃん。じゃあ結局自分がやるしかないやん」
そうやって自分でこなす。
それを見た「出来ない人」また思う。
「あの人がやってくれるから任せよう」
お互いがお互いのことを察して行動を見ているがゆえに、結局は誰もスッキリしていない。誰もハッピーになっていない。そしてきっとこれは永遠ループ。
察するんじゃなくて、伝える
人間の特性なのか、日本人の特性なのか、私たちは「察する」ことが得意だ。相手の表情から、空気から、動きから状況を察する。行間を読む、ともいう。
だけど「察する」ってカッコよく言ってるけど結局それは個人の解釈であって。きっとこの察している時間って漫画でよくある頭の中で時が止まったかのように繰り広げられている自問自答が続いている感じ。野球のシーンとかでよくある。ちなみに私は打席の時、あんなに考えたことなかった。考えてたらきっと三球三振してる。
少し話が逸れた。
互いが互いを察したことで、結局互いの望み通りにならないという本末転倒な状態。でもこれってその自分の思いを相手に言葉で伝えればいい話。
相手の意図が汲み取れないから何とか察しようとする。そこでエラーが生じている。だったらそのエラーが生じないように、直接言葉で伝えてあげればいい。
そう、たったそれだけのこと。
でもそれほどのこと。
大切なのはわかってる。
わかっているけど出来ていない。
わかっているけど難しい。
だけど大丈夫。
わかっているから変わろうとすることができる。
変わろうと思えばいつでも変わることが出来る。
大事なのは自分の状況に気づいているか。
変わろうとしているか。
それだけのことと思って蔑ろにするんじゃなくて、
それほどのことと思って意識を行動を変えていく。
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