”ずっと”なんてないのにね
純粋に思ったことがある。
”永遠”とか”ずっと”なんて存在しないのに、
どうしてそれが存在する前提で話が進むことがあるんだろうって。
こういうテーマになると、「人生」とか「恋愛」みたいな壮大なものをイメージして解釈されがちだが今回は実はそういうのではない。
ま、でも人生の一部をかじっているといえばかじってるか。
生きていると何かと都合のいい言葉で丸めこまれることがある。
みたいな。
何も知らない人からすれば、「そうなんだ!」となってその瞬間は頑張れるかもしれない。
だけど人間って学習能力があるのが特徴で。徐々に違和感を覚えていく。言葉とは裏腹に何も変わらない現状に。だけどまた、都合のいい言葉で丸めこもうとする。そんな時、ふと思う。
って。これのミソは別にこれが反発心とか否定的な目線とかそういうわけじゃないというところ。純粋な疑問だ。
だって人間であって機械じゃないんだから学習するし(最近は機械も学習する)、感情だって持っている。何回も同じ状況になって違和感を覚えないはずがない。
今回書きたいのは、そういう状況に対しての「ブーブー」ではなく、”自分軸を持つ”ということがすごく大事なんだなということに気付いたことだ。
相手は「うまく伝えれば納得してくれるだろう」と思って、自分にとって都合のいい言葉を並べて伝えてくるかもしれない。それを第三者がコントロールするのって難しい。
そんな時、違和感を覚えない、もしくは違和感を感じながらも従うしかないっていうことはそこに自分なりの意思がない可能性があるわけで。
明確な自分の意思=自分軸が存在していれば、違和感を感じた瞬間に見切りをつけるか、交渉をするか、別の選択肢を探す準備に入るはずだ。だけどこれはちゃんと自分の人生と向き合って考えていかないと、ただただ言われたことに従って疲弊していく一途をたどりかねない。
いきなり行動はとらなくとも、交渉はできるはずで。
”ずっとなんかないよ”ってことを気付いてもらうことって大事だ。
これは自分も誰かに対して同じようにしていないか省みることも大切。
もっと先を見据えれば、自分の人生にだって”ずっと”なんかない。
いつまで続くかわからない。
そこに対して舵を握れるのは自分だけなんだから、多少なりとももっと自分にワガママでもいいんじゃないかなって思う。
でもそれはただワガママじゃなくて、誰もが納得いく理由を持って。
そのためにも自分と向き合うことは忘れちゃいけない。
結局壮大な話になっちゃったけど、
最近ちょっと感じていた部分から言語化してみたかったことを記事にしてみた。
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