見出し画像

祖父の日記 010

宣戦の大詔を拝し奉りて

十二月八日、此の日こそ世界歴史上永遠に記念すべき秋である。 東洋平和の為に、世界平和の為に、日本は謙然だったのである。 此の日我々は移動準備の為忙殺されていた。そして内務班はゴッタ返していた。板を切って箱を造るもの、縄をしごいて箱を縛るも の、釘を打つ者、狭い部屋に多勢の者が押し合う様にうごめいて、 指揮する者の鳴る声がかすれる程だ。 
突然「ニュース」だという声に、一瞬今迄の騒然さはピタリと停った。廊下にあるラジオのもとへ一斉に耳をかたむけ、顔を向けたのだ。只ほこりだけが白くうごめいて煙の様だ。 
「君が代」が流れて来たので皆は其場に姿勢を正した。 机の傍にいるもの、上衣を脱いでいるもの、狭い廊下の間、寝台の間、荷物の間、そして二段ベットの上の方から見降している者、即ち全部の者が、全身を耳にしてラジオを見つめている。そして口には出さな が、心の中で君が代を合唱している。 
静かに君が代が終った。 
「只今より宣戦の大詔を奉読いたします。 日本国民諸君、一人残らずおき下さい。 日本国民の諸君、一人残らずおき下さい。 謹んで宣戦の詔勅を奉読いたします。 
『天祐ヲ保有シ万世一系ノ皇詐ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ告グ ・・・・・・・」
 アナウンサーの声は厳粛にしかも慄えを帯びている。 天井裏の出張った梁に吊した拡声器の下に、坊主頭を並べた皆の姿、何と形容し難い顔付であることか。 極度に緊張した顔は正に怒りを含んだ様相に等しい。
恐多くも陛下の、陸海軍人並に国民を御信頼遊ばされ、下賜されるその御言葉を拝聴して、何んとも勿体ないことである。 
兵達の間に誰一人動くものもなく、しはぶき一つするものもない。全く水を打った様な静けさである。そして心の中では皆同様に日本の重大性を知り、緊張に緊張を重ねたそのものである。 そうだ、とうとう来たのだ。戦うべき時が来たのだ。 
死ぬのだ。死なねばならんのだ。 
天皇陛下の為に死ぬのだ。米と英をやっつけるのは今だ。 そして東洋平和の為に世界平和の為に戦わねばならない。 
アナウンサーは謹んで奉読を終了した。ニュースが終っても誰一人動くものがない。 そして誰もの顔が赤く、眼がキラキラ光っている。そしてその瞳の奥に決死の色が燃えている。 武士として実に生き甲斐のある、男子として死場所を得た、誠に有難い極みと言わねばならない。キット皆は泣いているに違いない。心の中で決死を誓っているに違いない。そして戦に勝たねばならない。 
東洋平和の為に、四年有半苦しみに耐えて来た日本が、米英から仕向けられた屈辱を忍んでまで来たのだ。 最後まで手段をつく して、平和裡に解決せんと努力した。老獪な米英は圧迫、威圧と、事毎に日本を苦しめ、経済断交は既に実施され、武力に優る圧迫と屈辱を受けてきたのだ。米国が日本に提出したその要求が 
一、支那より日本軍の無条件徽退 
二、独、伊、日三国同盟の破棄 
余りにも一方的な、そして強圧的な要求、忍べるだけ忍び、耐え得るだけ耐えて来た日本が、何んとしても之を受けるわけには行か ない。そして遂に起つ可き秋が来たのだ。起ったのだ、そして米・英 を相手に勝たねばならない。 
あゝ、米英を撃つ日が来たのだ。此身一つとは謂乍ら、御国に捧げる時が来たのだ。 すめらぎの御楯となって働く秋が来た。自分許りではなく、此処に、此の部屋に、ラジオを聴いている皆は同じ心なのだ。 
続いて東条首相の 
「詔勅を拝読して」の話があった。 
その言や正に悲愴、その句や正に腸をつく、次々に起る感激、興奮誰か武士ならでは、日本男子ならでは、泣かざらん者あらむ哉である。頭を垂れ、拳を握って、皆は真っ直ぐに立っている。 兵達は鼻をすくっている。泣いているのだ。 先の詔勅に吾が身の嬉しさに泣き、首相の話に日本の民として共に泣く、泣かずして何んで此の首相の言葉が聞かれよう。日本の民草として生を享ける嬉しさ、誓っての重大時機に直面し、真の御奉公を為さねばならな そして只一語、戦に勝つことである。日本は本当に立つか倒れるかの境である。鉄石の如き団結と、強固な意志を以て、 米・英を破砕せねばならないのである。 
嗚呼、遂に戦う可き秋が来た。征路に旅立ちて百二十日、斯かる日の有ることは予想していても今こそ行くべき新戦場が決まったのだ。 
今更、何も思い残すことはない。 死なば諸共、大君の御楯となりて矢面に立つ我等、何時かしらラジオを離れた兵達のどよめきは、 語らずして判る決死への表現だ。 そして、先刻につづいて、板に釘打つものを巻くものが騒然としてもとの姿に返った。そして 又、新しい塵が、埃りが部屋に白く舞上って来た。 

 

 





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?