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祖父の日記 020 英人戦車兵の死体・朝枝参謀

英人戦車兵の死体

中天に高く昇る石油タンクの煙りは、先刻から少しもおとろえも見せず、そのドス黒い色は無気味である。我々憲兵は自動車で、敵兵武装解除の為、シンガポール市街地中心部への前進である。
と、道の右側に破壊された敵の戦車が放置され、展望台の上から上半身をうつ伏せに乗出して両手をダラリと下げ、鉄帽の頭を重そうにして、完全に死んでいる英軍戦車兵が一人.........
何れ、後続の他部隊が戦場清掃の際処理を為すであろうが、茲にも消えた一つの生命が、みにくい残骸をさらしていた。
そして又、自分も右手の傷を繃帯の上から押えて、昨日死んだ梅沢少尉や戦友達のことを想起した。
同じトラックの運転台右隣に、軍刀の柄を両手で掴んだま杖の様にして、一寸首を前にかゞめての姿勢でいる梅沢少尉は、左胸部を迫撃砲の破片に打くだかれて、親指大の穴があき、此の穴から血がこぼれて、腹に巻いた千人針の中に溜り、其の千人針のふくらみが風を孕んだ帆のように円く張っていた。
「しっかりしろ!! 梅沢少尉」
「ゥーン」
と応えるかすかな声、そして彼は後陣へ退る途中で息を引とった。 又、自分の左傍にいた当番は、左股のつけ根を打抜かれて、畳二枚程にも拡がった己の鮮血の中に浸り、大の字に仰向いたまアスファルトの道の上に死んで行った。その他同じ此の場所で同じ生命を失った兵達.........
敵、味方お互殺合う戦場は、お互の生命の犠牲に依って、平和が招来されると謂うならば、一日も早くその希望の実を結んで呉れるようにと、心の中で祈られずには居られない。

朝枝参謀

「起きろ! 」
「憲兵は居ないのか!」
恐ろしく大きな怒号で目を覚ました。隣に寝ている倉持曹長も、 目を覚ましたらしい。天井から吊った漏斗型の蚊帳の端が波打っている。裸電球の灯火の下に、軍刀を抜いた将校が一人、大股に歩きながら広い部室を横切って此方へやって来る。良く見ると朝枝参謀である。肩から胸に大きく動く参謀肩章が金色の光を放って、はっきり見えた。時間は午后十時である。どうしたのだろう。自分は急いで寝台から床へすべり下りた。
「軍の方針に随わぬ奴は、憲兵だって打った切ってやる!!!!」
そう怒鳴りながら近づいて来た。ところがどうしたのだろう、寝台の前に立っている自分を見て、急に方向をかえ、ガツガツ靴音を 立て、足早に別の戸口から、外へ出て行った。


今日、軍参謀の方針で「占領地に於ける日本軍の偉力を示す為、 シンガポール在住の支那人を粛正する」として、その具体的な案を示し、憲兵に之が実行方を命令した。
然し憲兵は、示された実行内容の、非人道的なると、非効果的な理由を以て、異議を具申した処、軍参謀の不興を買い、前記朝枝参謀の憲兵に対する嫌がらせもその一つであるようだ。
則ち軍参謀の謂う粛正の為の検挙理由の一つに、
一、戦前シンガポール在住の日本人を、敵国人として差別待遇したる者
一、蒋介石政権に協力、国防献金を為したる者
等、其他である。
想うに、敵国として利害反する国相互に於て、その相互の国民が、己れの国の為政者の方針に随い、国防献金を為し、国の為に力を尽すのは、当然すぎる程当然の行為ではなかろうか。例え敵国人たりとて、相手国に対する直接的害悪や又、人間に悖る犯罪を行わぬ限り、他人から拘束、又は制裁等受ける必要は毛頭あるまい。
戦争という現時点に於て、占領地住民の、その以前の行為を、しかも住民として当然の在り方を非として検挙するのは、非常識であ り、占領地行政をあやまるのではあるまいか。
仮に軍参謀が、我々憲兵を軍刀で切るとか、切らぬとかのことよりも、第二十五軍配属の憲兵である限り、軍の命令に服せざるを得ないのは、余りにも明瞭である。之を知りながら、憲兵の寝室に迄侵入した朝枝参謀の嫌がらせは、不見識も甚だしい。
彼は去る昭和八年歩兵七十四聯隊の、聯隊旗手として初夏の六月、 数千の兵員が整列する広い営庭に、さっ爽として立った紅顔の若い歩兵少尉であり、自分はあの時列兵として、黄色い布の星章を一つ肩につけた新兵だった。
其後自分は憲兵となり、彼は軍参謀となった。そして今八年振りの邂逅に依って、参謀との接近が再現した。
彼との個人的つながりがどうあろう共、今の場合、参謀という名の彼から遠退うとする自分の心を、どうすることも出来ない。
逢いたくもない。話したくもない。


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