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記憶製造装置

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』は、「紅茶に浸したマドレーヌを口にした瞬間、幼少期の記憶が鮮明によみがえる」、というように紹介されることが多い。しかし、この紹介は実際に作品を読んだ人のものとは思えない。実際に読んでみると、その瞬間に記憶が蘇る、というような生やさしいものではない。まさに七転八倒、まるまる3ページを費やした挙げ句に、思い出すのだ。

一般的に、人間の「記憶」はパソコンのデータ保存のようにイメージされる。そして、記憶を思い出すことは、そのデータを取り出すことだと考えられがちだ。「紅茶に浸したマドレーヌ」が暗号鍵となり、直ちに記憶(データ)は思い出される(取り出される)。「記憶とは脳内に記録された情報」というイメージ。

しかし、プルーストが描いたように、実際には苦心惨憺、死者を蘇らせるがごとくの苦労の挙げ句に、ようやく記憶は呼び起こされる。そうしてみると、記憶をパソコンのデータ保存に見立てたイメージが誤りであることは明らかだろう。

人間の「記憶」のメカニズムは、パソコンのデータ保存よりも、大規模言語モデル(LLM)と呼ばれるAIの学習プロセスに似ている。LLMは膨大なデータからパターンや関連性を学習する。同様に、人間も日々の経験や知識を通じて学習し、情報を統合している。違いと言えば、LLMの学習は事前に完結しているのに対し、人間の学習はあらゆる瞬間に継続的に行われ続ける、という点が異なる。

記憶の「想起(思い出すこと)」は、学習に基づいた情報の再構築プロセスだと考えられる。パソコンがデータを単に取り出すのとは異なり、人間の脳は必要な情報を様々な関連性やコンテキストに基づいて動的に再構成している。この過程は、LLMが学習したパターンに基づいて新しいテキストを生成するプロセスと驚くほど似ている。

「昨日の夕食、何を食べたっけ?」

多くの人は、少し考えてから「あ、そうそう、カレーだった」などと答えるはずだ。しかしこれは、脳内のどこかに「昨日の夕食」にかんするデータが収納されていて、それを探し出してきたというわけではない。「昨日の夕食」を思い出す際、実際には断片的な情報から、食べた料理、場所、同席した人々などの詳細を再構築しているのだ。つまり、人間の「記憶」の「想起」は、データの出し入れではなく、「学習」に基づく「生成」プロセスと言える。

この理解は、人間の記憶が時に不正確であったり、状況によって変化したりする理由を説明する。興味深いことに、この特性はLLMにおける「ハルシネーション(幻覚)」と呼ばれる現象に似ている。人間の記憶も、LLMの出力も、完全に正確ではなく、時には「創造的」な要素を含んでいるのだ。

人間の記憶と想起のプロセスがLLMのメカニズムと似ているということは、人間とAIの情報処理に本質的な違いがないことを示唆している。これは、人間の能力を過大評価したり、AIの能力を過小評価したりすることの危険性を指摘するものだろう。

繰り返すが、人間の記憶とはデータの保存ではない。「記憶」の「想起」は、データの出し入れではなく、「学習」に基づく「生成」なのだ。

ここまで、例によって素人の思いつきだ。では、教科書では「記憶」についてどのように書かれているのだろう。

『認知脳科学』/嶋田総太郞/コロナ社

この教科書は2017年に出版され、2022年に東京大学の認知科学の講義で使用されたものだ。

興味深い事例が紹介されている。「ショッピングセンターでの迷子実験」というものだ。

これは被験者の幼い頃の記憶を聞く課題であり,その中に「あなたは幼い頃にショッピングセンターで迷子になって大騒ぎになりましたね」という偽りの項目を入れておく。被験者はそのような記憶はないのでもちろん「いいえ」と答える。興味深いのはこの後で,被験者に何日か時間を空けて何度か研究室に来てもらい,同じ質問をする。すると,最初は否定していた被験者のうち,じつに4分の1は,その記憶をしだいに「思い出し」,「はい」と答えるようになるのである。

『認知脳科学』/嶋田総太郞/コロナ社

これぞまさに「ハルシネーション」だ。人間とAIの情報処理に本質的な違いがないことの証拠だろう。

この「ショッピングセンターでの迷子実験」を知ることができただけでも、この教科書を読んだ価値があったのだが、しかし残念ながら、その他の記述からは、私の「記憶の想起は学習に基づく生成」というアイデアがサポートされているとは言えなかった。

先に引用した「ショッピングセンターでの迷子実験」は、記憶が動的(変化し続ける、流動的な状態)なものであることを示唆するが、一方で、短期記憶から長期記憶への移行を「記憶の固定化」とする説明は、データ保存のような静的(変化しない、固定された状態)なイメージに思える。

この章(7章:記憶と学習)の冒頭は

一般に,学習とは新しい情報や技能を獲得するプロセスであり,記憶はそのプロセスを通じて形成された脳内の表現である。

『認知脳科学』/嶋田総太郞/コロナ社

という記述から始まる。これは記憶をデータ保存とするイメージを前提としている、とも解釈できるのではないだろうか。

教科書は、記憶を完全に静的なデータ保存として扱っているわけではないが、記憶を動的で常に再構築されるプロセスとして明確に定義しているわけでもない。記憶の書き換えについて言及はあるが、それが記憶の本質的な特性であると明確には述べられていない。

結局、この教科書は私のアイデアを単なる思いつきにとどめるわけだが、であれば仕方がないので、思いつきをさらに進めていこうと思う。

私は、そもそも「記憶」という語句の使用に問題があるのではないかと考えている。「記憶」という語句は、どうしても「データ保存」というニュアンスを含むからだ。ちなみに、この教科書で取り上げられた「記憶」を列挙してみたい。

短期記憶/長期記憶/感覚記憶/顕在記憶(宣言的記憶)/潜在記憶(手続き記憶)/エピソード記憶/意味記憶/ワーキングメモリ/運動記憶

この中で、「短期記憶」、「感覚記憶」、「ワーキングメモリ」は「記憶」と呼んで差し支えないだろう。しかし、それ以外を「記憶」と呼ぶことは適切でないと考える。それ以外はさし当たり「処理手順」と呼んではどうだろう。

「処理手順」とは、経験や情報を基に再構築される認知プロセスを指す。これは、固定されたデータの単なる保存や取り出しではなく、情報の断片を結びつけて新たに生成する一連のプロセスを意味する。「処理手順」とは、このように定義できる。

この提案は、短期記憶、感覚記憶、ワーキングメモリを除き、これまで「記憶」と呼ばれていた概念を「処理手順」として再定義するものだ。これにより、記憶のデータ保存イメージを覆し、記憶が常に再構築されるプロセスであることを強調できる。記憶とは静的(変化しない、固定された状態)ではなく、動的(変化し続ける、流動的な状態)なのだ。これには以下のような具体的な意義と利点がある。

従来の記憶観では、記憶は脳内に保存されたデータのように考えられてきた。しかし、記憶は固定されたデータではなく、経験や新たな情報によって常に変化し再構成される。記憶を「処理手順」として捉えることで、この変化する性質を強調できる。

例えば、新しい技能を習得する際、最初はうまくできなかった動作も、繰り返し練習することでできるようになる。この技能習得の過程を単なるデータの蓄積とするのは無理があるだろう。単なるデータ保存ではなく、動的に再構成される「処理手順」であると考えた方が自然に思える。

あるいは、「昨日の夕食を思い出す」過程は、単に脳内のどこかに保存された夕食のデータを引き出すのではなく、断片的な情報(食べた料理の種類、食事をした場所、同席した人々など)を組み合わせて再構築する作業だ。この再構築のプロセス自体が「処理手順」と言えるだろう。

また、記憶を「処理手順」として再定義することで、記憶のエラーについての説明が可能となる。

先にも引用した「ショッピングセンターでの迷子実験」では、被験者が実際には経験していない出来事を、何度も質問されることで「思い出す」ようになる。これをデータ保存としての「記憶」ではまったく説明できない。ないはずのデータを出力してしまうのは、それが「処理手順」だからだ。何度も質問することは「処理手順」への介入であり、その影響によって、経験していない出来事を「思い出」として生成してしまう。「処理手順」と考えれば、何ら不思議なことではない。

いままでひとまとめに「記憶」と呼んでいたものを、短期記憶、感覚記憶、ワーキングメモリの3つとそれ以外に分け、それ以外の部分を「処理手順」と呼ぶことで、教科書の冒頭の記述は、以下のように書き直すことができる。

「一般に、学習とは情報から処理手順を獲得するプロセスであり、そのプロセスには記憶(短期記憶、感覚記憶、ワーキングメモリ)が利用される。」

記憶とは学習の結果ではなく、学習のプロセスで活用されるツールとして位置づけられる。よって、改めての繰り返しになるが、「記憶とは脳内に記録された情報」という一般的なイメージは誤りであり、いままで「記憶」と思われていたものの正体は、学習によって獲得した「処理手順」に基づく生成なのだ。

プルーストも『失われた時を求めて』に書いている。「探求?それだけではない、創造することが必要だ。」と。

主人公はマドレーヌの味から、コンブレーでの幼少期の記憶を鮮明に思い出す。しかし、これは単なるデータの確認ではない。

今や家の庭にあるすべての花、スワン氏の庭園の花、ヴィヴォーヌ川のスイレン、善良な村人たちとそのささやかな住居、教会、全コンブレーとその近郊、これらすべてががっしりと形をなし、町も庭も、私の一杯のお茶からとび出してきたのだ。

『失われた時を求めて』/マルセル・プルースト(鈴木道彦・編訳)/集英社

この描写は、断片的な記憶が「処理手順」によって統合され、豊かで生き生きとした経験として再構築されたことを示している。

同じことをAIにもやらせてみたい。「紅茶に浸したマドレーヌ」というプロンプトを、コンテキストウィンドウという口に運んだ時、アルゴリズムはどんな情景を生成するのだろうか?

たぶん、失われた記憶をでっち上げるはずだ。

『失われた時を求めて』と『認知脳科学』


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