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「書く」を習慣化してみる

DAY1:「書く」の事はじめ

最近、やたらと朝早くに目が覚める。
せっかくなので、朝一のこの静かな時間、頭もスッキリしているので毎日30分ほど物を書く時間に充ててみたいと思う。

ベッドから出たら、とりあえず随伴的に書く。習慣になるまで、この行動を繰り返す。今日(2021/9/10)はそのDAY1だ。

僕はルーティンを確立するのが比較的得意だと思う。
内発的動機の赴くまま、とりあえず始めるのはとても重要だ。頭の中であれやこれやと行動にストッパーをかける理由は次から次へと浮かんでくる。それでもとりあえず始める、手を動かす。アイデアをアクションに移すことではじめて、修正をしたり、計画を立てたり、本当のゴールを浮かび上がらせることができる。

とはいえど、習慣の確立にあたり“クソほどの”意味がないのが意思だ。どこまでいっても、ある程度機械性の効いた仕組みとセットで習慣の第一歩目は始まるべきだろう。そのHOWについては多くの知見が世の中に出回っているし、自分に合った方法を試してみるのがいい。最近読んだ『ジェームズ・クリアー式 複利で伸びる1つの習慣』なんかもオススメで、とくに気に入ったのが本著の序盤、人間が習慣を打ち当てるにあたり個々の「アイデンティティ」を無視することはできないことに言及していたことだ。

仕組みも大切だけれど、それ以前に、自分はどこまで行っても自分である。自分を構成する価値観や願望を知ること、なりたい自分を描くこと、その延長線上に最小習慣の一つ一つがデザインされるべきであろう。逆に、そうした大上段の自分性に根差さない習慣は綻びやすく、実行と継続の難易度はかなり高い。

このnoteでは、【DAY1】から習慣化までの実験過程を、ある程度区切りのいいところまで書き記し続けていく。日記的な側面も有しつつ、ある程度メタな視点から、自分が習慣化までのステップを実験者/観察者として記述。パラレルで他のnoteも書くことになると思うので、なにを書くのか、どう書くのか、どう続けるのか。書くことについて(あらゆる方向から)書いていく。

DAY2:“設計図”が必要な文章とそうでない文章

考えてみれば、今年に入ってから一本たりともnoteを書いていない。久しぶりにnoteのモバイルアプリを触ってみたら、知らぬ間に大幅にアップデートされていた。noteを前提にアウトプットを考えているのなら、①テーマとなりうる大アイデアも、②その大テーマの段落となるような中テーマも、③中テーマに付随する小アイデアさえも、メモ帳を経由させずに直接、随時noteの【下書き】に放り込んでいくのが適当かと思う。

まず、メモ帳(BearとかEvernoteとか)、Twitterとかnoteの【下書き】に散逸しているそうした<書きたいと思っているアイデア群>を整理・集約。それらに書き残されていなかったけれど、頭の中にぼんやりと在った<書けること・書きたいこと>の洗い出し。

そうしたアイデアの種は「書こうと思えば、一気に書き上げられる類」のものと、「ある程度、時間を置いて発酵させておきたいもの」に分類される。いま自分のなかでは、「もしかしたら一冊の本になるかもしれない」予感を持つコンセプトが明確に存在しているアイデアもある。これに関しては、ある程度計画立てて取り掛かる必要があると思っている。“グランドデザイン”と言うと大仰だけれど、構成の大まかな骨格づくりや、通底するコンセプトを措定しておくことだ。

エッセイのような形式であれば、それこそ徒然なるまま、その時々の気分に任せて筆を乗せること、だからこそ生まれるグルーヴみたいなものもあるだろう。ただし、コンセプトを有した長文を書くのであれば、設計図が欲しい。逆に、設計の部分でストーリー展開を含めた論理を貫ければ、あとはある意味で、文章を流し込んでいく作業になる。

流し込むとはいっても、「そもそも文章を書く」ことに慣れていない人にとってみれば、文章の組み立て方以前に、書き方を身につけたいと思うかもしれない。ライターとして商業文章を書くことに従事しないのであれば、僕としてはそれほど形式を気にする必要はないと思いつつ、最低限の「読みやすい」文章を書くためのざっくりとしたHOWを知りたいのであれば『新しい文章力の教室 苦手を得意に変えるナタリー式トレーニング』をお勧めしたい。

DAY3:「書き続ける」をどう運用していくか

当座の見通しとして、自分が定常的に書き溜められるテーマとして思い浮かぶのは三つだ。①日記や雑記の類、②本や動画などコンテンツレビュー、③ポーカーにまつわるあれこれ。

①と②に関してはもう10年以上書きつけてきたから、イメージがしやすい。とくに②に関しては、自分なりに一定のフォーマットを定めてしまえば、間違いなくスムーズなアウトプットができる。問題は①で、日記と雑記は分けて考えていく必要がありそう。前者は時系列に沿い、(ある意味で)吐き出していくだけ。習慣の仕組み化さえ確立できれば、確実にコンテンツとしてアウトプットできる。その日記の束を週刊として吐き出すのか、月刊としてパッケージングするのか、それは追い追い考えればいいことだ。

では、後者の「雑記」はどうか。ツイッターを例に取ると分かりやすい。僕はツイッターの一つの用途として、外部に吐き出すメモ帳として使うことがある。

そもそも初めから連ツイする場合もあるし、遡求的に続きのアイデアを思いついて昔のツイートに連ツイートを加える場合もある。いずれにしても、原初的なアイデアの種をまずはツイッターに投げつけ、発酵のプロセスを経て、一つのnoteに膨らむイメージを掴む。連ツイの絶対数が大事なわけではなく、noteにしたときの具体的な構成をイメージしたときの段落がなんとなくでも想像できるかがポイントだと思う。

締め切りのない私的な文章(ここでは、日記ではなく雑記を指す)をどうやって定期的に書き続けられるだろうか。発酵のプロセスを自然に任せずに、決まった時間に生み出し続けるには。その確固たる方法論は持っていないけれど、頭で考えるよりも手で考える必要があるだろう。書き続けることでしか、「書き続けること」の要諦は掴めないはずだ。

職業エッセイスト/コラムニストは(たとえば雑誌連載をいくつも抱えているとして)否が応でも文章を書き出さなくてはならない。シンプルに締め切りの外圧が働く。僕みたいな素人の場合、わざわざ自分を締め付けるような仮想締め切りを自分に課すべきなのか。肩肘張らず、好きなとき、好きなように書くべきなんじゃないか。意見はさまざまだろうが、結局のところ、本当の習慣の確立は【DAY 1】の項でも触れた「アイデンティティ=自己同一性」に帰着するのだろう。どんな自分でありたいのかーーその解像度の高さこそが、習慣と成果の強固なループとなり、願っていた像としての自分が形作られていくのではないか。

DAY4:点としての習慣から、線としての生産へ

昨晩、赤ワイン一本を一人で飲んでしまい、ものすごく目覚めが悪かった。ここ数日はいいリズムで早起きし、ルーティンの確立に邁進できていたのに。何気ない日常の綻びが継続的な習慣の脅威になることすらあるので注意したい。

自分をマニュアル・モードに設定し、息切れしないため、長く強く書き続けるために。どこまで行っても、気持ちよりも仕組みを優先すること。偉大な先人たちの執筆ルーティンで真っ先に思い浮かぶのは、村上春樹とヘミングウェイの共通したシンプルな原則だ。両人とも徹底した朝型の生活リズムを守り、決まった時間に、決まった分量を書く。傑出した二人の文筆家の二人がさらに挙げるTipsが、筆を置くタイミングだ。

僕らであれば、アイデアが次から次へ湧き出たり、気分が乗ればいつまでも文章を書き続けたくなる。逆に、何も考えが浮かばなかったり、今日の僕みたいにひどい二日酔いに悩まされていたら、「今日はこの辺にしておくか」と適当なタイミング・分量で妥協するだろう。でも、この二人の書き手は違う。「まだまだ書ける」「次の展開はこうだ」と具体的なイメージが頭にあったとしても、決まった時間・分量に達したところで作業を終える。むしろ、こうしたポジティブな余韻感が翌日の執筆のドライブを牽引する。習慣(仕事=執筆)を点としての作業ではなく、ある意味で永続的な線としての生産として捉えているからこその積極的な中断なのだろう。

各人に与えられた活動の時間は等しく24時間である。いま僕は起床の6時から30分は何があっても執筆してみる習慣の確立にトライしている。この30分が習慣として確立されたのなら、一日のなかの1/48に過ぎない時間の束がやがて創造の源泉に導いてくれるかもしれない。今日の創造的30分間が明日、明後日、来週、来月...と続いていく。日常的な習慣を線的に捉え、中長期で「ありたい自分の姿」に結びつける。毎日の30分間を独立した時間と捉えるのではなく、続時的な時間の塊として係留していく、バトンを繋いでいくイメージで。

与えられる時間は無慈悲なまでに平等だけど、自分にしか書けない何かはあるのだろうか?
こんなちっぽけな文章をわざわざ世に出す必要があるのだろうか?

明日は、私的な文章を書く際に立ちはだかる“不確かさ”や”自信のなさ”への見解について書き記したい。

DAY5:文章のオリジナリティとおもてなし精神

結論から私見を述べるなら、文章はどこまでいってもオリジナルな代物だ。なぜなら文章の元になる経験や思考は一意なものだからである。前項で述べたように、各人が与えられた24時間は平等だとしても、全く同じインプットをしている人がいないなら、原理的に同じアウトプットもあり得ない。

さらに言えば、そうした経験や思考を言葉に置換し、文章として並び立てていくときの選択肢は無限大だ。その無数のチョイスの配列と構成に、どうしてもその人らしさは表出していく。このように、ある完成された文章の背景には二段階の濾過過程があり、文章技術の巧拙にかかわらず文章ははなから“オリジナリティ”を宿命づけられているのである。

僕が駆け出しのライターとして修行を始めた当初、師から「とりあえず、これ読んでみて」と勧められたリリー・フランキーさんのエッセイ集『美女と野球』は上述した説明が一番分かりやすく体現された一冊だと思う。そして、リリーさんは後述するように、文章に向き合う人であれば必ず芽生える“おもてなし精神”の真髄を教えてくれる書き手だ。

自分の「オリジナリティ」を当初から自己認識し、その価値を自分で客観的に把握するのは容易ではない。あくまでも他者の目に晒され、他者評価を受けて初めて気づくものだ。おそらく僕が初めてブログを書き始めたのは高校生くらいのときなので、もう10年以上になる。もちろん初めは誰の目に触れることもなく、それこそただの自己満足というか、純粋なログとして読書の記録や雑記を書き連ねていた。

それでも、インターネットの大地は想像以上に広く、必ず誰か一人は見てくれているものである。そうした誰かの何気ない感想やフィードバックを受けたとき、書き手として第一にして最大の意識改革が起こる。つまり、自分以外の他者のまなざしが内在化され、宛先を持った文章を書くようになる。独りよがりの文章であれば、読みやすさを気にかけたりはしないだろう。でもその先に、自分の文章をわざわざ読んでくれる誰かがいると意識するのであれば、そこに“おもてなし精神”が生まれる。

おもてなし精神があれば、読みやすい文章を書きたくなる。読みやすさとは、細かいレベルの文章表現やルール、論理構成、主題を裏づける根拠の提示...挙げきればキリがない。ブラッシュアップしようと思えばいくらでもできる。こと「文章の読みやすさ」に限っていえば、学習曲線の80%台に持っていくまでには、こうしたチェックリストを上から順に潰していく要領で、決まりごと身につけていくだけだ。問題は、文章表現の基礎的イロハを身につけた後、成長を80%よりも上に押し上げていくものはなんなのか?

そう、ここでも“オリジナリティ”の追求に帰着するのである。

DAY6:自分だけの筆致・リズム・世界観

文章はとてつもなく複雑な構成物だ。前項で触れたように、その素地となるのは、属人的な経験や思考だ。そうした原液を文章に落とし込んでいくプロセスは、言葉の海を泳ぐような、果てなき砂漠を歩くような、途方もなさがある。語彙の選択、文の並べ方、構成の組み立て方。この選択の積み重ねにより、築き上げられる“文章”はオリジナリティの塊だ。

文章のオリジナリティは、何もアイデアの新奇性や文章表現の流麗さに限定されない。ある人の文章にはリズムやグルーヴ感がある。あたかも、視覚で音楽を聴いているかのような心地にさせてくれる。人が紡ぎ出す文章の総体には、誰も真似することできない「筆致」または「筆触」ーーひとことで言ってしまえば「ニュアンス」が立ち現れる。

僕が読書をするとき、「新しい知識を仕入れたい」という一義的な読書目的以外にもいくつもの動機がある。食事のアナロジーで考えると分かりやすいかもしれない。どんぶりをかき込むような読書があれば、高級フレンチを作法に従いながら嗜むこともある。喉越しよくゴクゴクとビールを飲むのか、一口づつちびちびとウィスキーを飲むのか。読書のモードはさまざまだ。

以前「食べたくなる“言葉”」との短文を書いたことがある。

松岡正剛のことばは滋味深く、伊坂幸太郎のことばは喉越しがよく、中島らものことばは、どことなくエタノールの鼻をつく香りがする。坂口恭平のことばはジビエのごとく野性味に溢れているし、村上春樹のことばは芳醇なバタ臭さが漂う。

学生の頃、好んで思想書を読み込んでいた期間があった(今でも後述する理由で好き)。手に取る本にはよるが、初めて思想書に立ち向かうとき、ほとんどの読者は面食らうことだろう。見たことも聞いたこともないボキャブラリー達が、ときにアクロバティックな論理展開を交えながら、羅列されていることに。はっきり言って「意味が分からない」のオンパレードが続く。でも、ここで立ち止まることになる。「この“分からなさ”」は一体どこに起因しているのだろうか。あまりにも知らない語彙や概念が多すぎるのか、論理が追えないからなのか。

「本来は簡単なことを、いちいち難しそうな言葉でもって、衒学的に書き連ねているだけなんじゃないか」と疑義を挟むことは容易だ。でも僕が思想書を今でも時たま好んで読むのは、難儀な文章や概念装置が、頭のなかをマッサージしてくれるような感覚を得られるからだ。一意的な正解を追い求めるよりも、自分の内側にあるアイデアと創発されるインスピレーションがないかを探している。余白のある言葉は発想の着火を促してくれる。

「読むことは書くこと」ーーそう思えるようになると、文章との向き合い方の視座が一段階上がる。前項で述べた成長曲線の80%の上の世界への旅が始まると言えば大袈裟だろうか。自分だけの筆致、奏でられるリズム感、それらの総体としての世界観の確立。「書く」ーーこのあまりにシンプルで原初的な営為が、自分をどこへ連れていってくれるのか、または誰かをどこかへ連れていくことが可能なら?

文章や創作の出発点には必ず「想像力」がある。

DAY7:書き続けることは、「治癒」と「回復」の過程

「『書く』を習慣化する」をテーマに、実験的に毎朝30分書き続けてみた今回のnoteもDAY7を迎えた。この辺りで区切りをつけて、次のテーマに進もうかと思う。

冒頭でも述べたように、この一年noteを書くことすらなかった。まして、読書さえ敬遠していた。以前までは、歯を磨かずには眠れないように、活字中毒気味であったのに。読むことも、書くことも、一切の意欲が失われていたのだ。

いわゆる自律神経失調症気味になった僕は、仕事の一切も手につかなくなり、ただベッドに横になってNetflixをダラダラと観ているだけだった。この間、時間の感覚も乏しく、気づけば1週間、1ヶ月、1年と経っていた。

読書を再開したのは、ほんの1〜2ヶ月前だ。すると、不思議なことに乾いていた砂漠に染み渡るように、読書が与えてくれる知的な悦び・発見の感覚を再び思い出すことができた。前項で、「読むことは書くこと」と述べた。

たくさんの言葉を咀嚼し、飲み込むことで、今度は吐き出したくなった。行動と欲求は相互的にフィードバックを与え合う。ある行動がある欲求のトリガーになる。身体的なメカニズムは属人性が高いから、絶対的な正解はなく、事前に「こうすれば、ああなる」とは分からない。時には、ただ待つことが必要な場合もあるだろう。僕の場合は、読むことが、書くことを喚起してくれた。じゃあ、書くことは、なにを導いてくれるのか?

本文を通じて繰り返し述べてきたことがある。それは、習慣を強力に下支えするのは「アイデンティティ」であるということだ。過去と現在と未来の自分を貫くもの、自分が自分であるためのバロメーター、ありたい姿の一里塚。人間は、微妙で危ういバランス感覚とバイオリズムをなんとか保ちながら生きている。ときに習慣を失うことは、自分を見失うことにもなる(大袈裟と思うかもしれないけれど、本当にそうなのだ。少なくとも僕は肉体と精神を通じて、痛いほどにその経験をした)。

逆をいえば、自分の在りたい姿を思い描くとき、習慣だけが自分をそこへ連れていってくれる。思考は現実化する、習慣は思考と現実の間の往復運動なのだ。

いま僕にとって書き続けることは、治癒と回復の過程そのものなのかもしれない。

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