見出し画像

語学の散歩道#2 異国に没す

フランス語を学び始めて1年が過ぎた頃、通っている語学教室の掲示板に初心者向けのスピーチコンクールが開催されるとの案内が貼ってあった。毎年恒例のイベントだが、そのときは他人事のように素通りしていた。

そんな5月のある土曜日、学館のメディアテークを訪れた際に親しくなったスタッフの方から、

「Ryéさん、これ参加してみたら?」

と声をかけられた。

中学生の頃まで趣味程度でピアノを習っていたのだが、何が苦痛といって発表会への出場だった。苦手な暗譜に加え、大勢(といっても大抵は生徒の親で自分の子どもにしか関心がないのだが)の前で、何かをパフォーマンスするなんて、考えるだけで背筋が凍ったものである。大人になって再び始めたピアノのレッスンでも、やはり発表会への参加を求められた。仕事が忙しくて暗譜する時間がないから楽譜を持ち込んでもいいですか、と先生に頼んでみたところ予想通り渋面され、仕方なく必死で練習して体で覚えた。

ところが、発表会当日、慣れないピアノの前に座ると、最初の音がどの鍵盤だったかわからなくなった。鍵穴もないから中心がわからない。そのうえ慣れない鍵盤の反射速度に動揺し、オクターブ飛んだ時にどのキーに着地したらよいのかもわからなくなってしまった。曲は、シューマンの『飛翔』。私の指は文字どおり鍵盤の上を飛び回っていた。

弾き終わった時、幕裏にいた先生と目が合った。会場では拍手喝采だったが、先生の表情からすると「よくて可」といった辛口の点数がついていた。小学生の子供たちと一緒に参加した発表会なので会場からの拍手は当然のこと、先生としてはもっと大人の弾き方をしてほしかったという気持ちだったのだろう。ピアニストを目指しているわけでもない生徒に対してかなり厳しい判定だが、ある意味においてこれは正しい。趣味とはいえ、どうせなら上手く弾けるようになりたいと思うものの、上達するためには努力が必要だ。しかし、発表会に限らず、点数をつけられてまで何かをするのはどうしても嫌なのだ。


「Ryéさん、これ参加してみたら?」

この一言で、これまでの人生の悪夢の数々が忘れていた記憶の奥底から魑魅魍魎のように甦ってきた。さながらホラー映画である。

「私、人前で何かするのは苦手だし、暗記も苦手だし、フランス語も上手くないし、無理ですね」

と、そそくさと退散しようとしたのだが、

「初心者向けのコンクールだし、私も昔参加したことがあるよ。別に入賞を目指す必要はないわけだし、イベントだと思って気軽に参加してみて」

爽やかな調子で返ってきた言葉に釣り込まれて、

「そうですね。じゃあ、やってみようかな」

と、うっかり答えてしまった。この一言で私の運命は決まってしまった。

こうして、参加したコンクールの顛末は、こちらの記事に掲載している。
(スピーチの原稿も掲載していますので、興味がある方は読んでみてください。)


コンクールの結果はさておき、私にとって嬉しいことがあった。以前から時々顔を合わていた中国人の女性と親しくなったのだ。これまでもあいさつ程度は交わしていたが、クラスが違ううえにとりたてて話題もなかったので、ろくに話したことがなかった。

今回、彼女もこのコンクールに参加していた。コンクールが終わった後の打ち上げ会場で話しかけられた。私のテーマが「俳句で見る日仏文化比較」というものだったので、彼女が興味を示したのである。もちろん、審査員だった大学の先生と大使館の方からもあれこれ質問をされた。まるでコンクールの質疑応答の延長戦のようだったが、こちらは点数が付けられるわけではないので、とても楽しく交流できた。

にぎやかな会話の後で、中国人の彼女がこれをフランス語に翻訳してくれないか、と私に一枚の紙片を渡してきた。


 日照香爐生紫烟
 遙看瀑布挂前川
 飛流直下三千尺
 疑是銀河落九天


唐の詩人、李白の『望廬山瀑布』という詩である。中国語はわからないが、字面からとても美しい詩であることがわかる。

「うまくできるかどうかわからないけど、やってみます」

と、これまたうっかり答えてしまった。フランス語を学び始めて1年半ほどしか経っていない人間が使う台詞ではないと気づいた時にはもう遅かった。彼女はとても嬉しそうな顔で、

「それ、いつでもいいよ。待ってる」

そう言って、別の友人たちと連れ立って会場を去っていった。

私は、もう彼女の名前を憶えていない。当時のプログラムを引っ張り出せば彼女の名前が掲載されているので、思い出すことはできる。
しかし、私は彼女の名前を思い出したくないのだ。


約束したフランス語の訳詩が出来上がったので、彼女に渡しに行った。私たちは毎週土曜日に授業を取っているので、授業の前後にメディアテークに行けば、大抵お互いに顔を合わせることができる。彼女がとても喜んでくれたので、私も嬉しくなった。


ある時、彼女が一緒に夕食を食べに行こうと誘ってきた。少し浜のほうに行ったところにある、中国人が経営する中華料理店だった。店主と知り合いなのだそうだ。店主に限らず、中国人のことなので、おそらくこの町に住む中国人のほとんどと顔見知りなのではないかと思う。中国人のネットワークの強さは、世界中にあるチャイナタウンを見ればわかる。

彼女が勧めてくれた料理は、どれも笑いが止まらないほど美味しかった。人間は、常軌を逸した状況に陥ると、笑ってしまうものらしい。中国語を勉強したいのだというと、彼女が中国語の単語をいくつか教えてくれた。私が彼女の発音を真似て繰り返すと、筋がいいと褒めてくれた。

しばらくして、彼女がふと身の上話を始めた。

年齢は50代半ばくらいに見えたが、派手ないでたちのため年齢は不祥だった。日本では、医者として働いているのだそうだ。彼女の父親も医者だったが、西洋医学を学んでいたため、中国での文化大革命時代に家族ともども新疆へ追放されてしまった。その後紆余曲折を経て日本へ渡り、自分は勤務医として働いているということだった。

文化大革命など、私にとっては日中国交回復とともに教科書の中の歴史だった。当時は大変だったよ、と語る彼女は、そうした苦労を見せないほど明るかった。

彼女と話していて当惑するのは、いつも日本人の「建前」という文化についてだった。

「日本人の家訪問するとき、私、手土産持て行ったね。喜んでくれたから、また持てったら、少し変な顔したよ。別の人から、本当は私の手土産、好きじゃなかった聞いて、びっくりしたね。なんで嫌いなら嫌いと日本人いわないか。わからなかったら、また私同じもの持てってしまうよ」

やや憤慨気味に語る彼女に、もし断ってしまったらむしろ相手が気を悪くしてしまうだろう、受け取るのは相手の心遣いへ感謝の意を示すためだ、といかにも建前的な回答をしてみたのだが、彼女は断固として、嫌なら嫌だというべきだと主張し続けていた。

もっともな意見である。建前というのは、日本人にとってもやっかいな文化だと思う。他人の好意を上手に断るのは実に難しい。笑顔で受け取りながら、私、メロン苦手なのよねぇ、と思ったりした経験は一度ならずある。

しかし、こうした彼女とのやり取り以来、私はできるだけ本音で丁重にお断りをすることを覚えた。「ありがとうございます。でも、メロンは食べられないんです。母が好きなので、あげてもいいでしょうか」と、言えるようになったのは、彼女のおかげである。


それからしばらくの間、彼女の姿を見なくなった。フランス語をやめたのかと思っていたら、ある日、学館のスタッフさんからこう言われた。

「彼女、しばらく前に癌が見つかって闘病していたのだけど、先月亡くなったの」

言葉を失った。

私は、家に帰ると引き出しの中をかき回して、彼女に渡したフランス語訳の詩の原稿を取り出した。涙で目がにじんで文字が見えない。

母国を追われ、異国に生き、その短い生を異郷の地に埋めることになった彼女の気持ちは如何ばかりであっただろうか。

そうやってしばらく眺めてから庭に出ると、私はその紙片の端に火をつけた。

李白の詩は、細く薄い煙となって小さな白い竜のように立ち昇り、やがて消えた。
彼女の名前とともに。

そうして、彼女との思い出だけが残った。


<語学の散歩道>シリーズ(2)

この記事が参加している募集

英語がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?