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原書のすゝめ:#14 Carry on, Jeeves

英語の授業が苦痛に感じられるようになったのは、一体いつからだろう。

文法の授業では「構文を丸覚えするように」と言われたものだが、丸暗記が苦手な私にとってそれは拷問に等しかった。書取りの時間では、綴りを思い出そうとする間に先生が次の文章を読み始めるので、鉛筆が追いつかず、いつも途中からBGMになるのがオチだった。

しかし、構文の丸覚えも書き取りも語学学習には欠かせないものだから、もちろん一切の責任は自分自身にある。

大学での英語との関わりは、単位修得という申し訳程度にすぎず、語学の力点は第二外国語のスペイン語に置かれた。スペイン語の学習が苦にならなかったのは不思議だ。

テーマの選択に四年間悩み続け、提出日ギリギリに滑り込ませた卒論は、口頭試問の際に「君にはもう少し期待していたんだけどね」という、教授の有難い言葉をいただいてあっけなく終わった。

「でも、中世の荘園のくだりは面白かったね。そこに焦点を絞れば、もっといいものが書けただろうに」

私はひたすらこうべを垂れていた。

その通りである。
入学以来、卒論は中世イギリスについて書こうという漠然とした目標はあったものの、文献を漁りながらこれといった目ぼしいテーマは見つからず、単なる要約にすぎない論文を半ば書き終えたところで、中世イギリスの荘園に関する本を見つけたのだ。卒業をかけた締め切りデッドラインと、留年覚悟で仕上げる卒論のいずれをとるべきか。私の天秤ばかりは、容易に前者に傾いた。

学業において充実とは言い難い学生時代を送った私は、その責めを負ってシーシュポスのようにいまだに苦行を続けることになった。毎日せっせと単語を積み上げても、それらは翌日には記憶の山から転がり落ちていくのだ。

そこで、山登りをやめて平地を歩くことにしてみた。ゆっくりと景色を楽しみ、途中で休息を取りながら進む道はなかなか愉快である。

その道標となったのが、本であった。
それまで翻訳で楽しんでいた本を、原書に切り替えて読むと、見える景色が変わった。

そういうわけで、原書に取り組む日々が始まったのだが、最初は何度も挫折を繰り返した。好きな本なら読めるだろうと、当時ハマっていたジョン・グリシャムやパトリシア・コーンウェルを手始めに読んでみたが、数ページ読んだだけで放り出してしまった。初めて通読したのは、ダン・ブラウンの『The Da Vinci Code』であることは序文で述べた。


私は歴史が好きである。
そこから興味が扇状化して、文化や社会にまつわる本を読むことが多い。ミステリを読むようになったのも、そこに社会が垣間見えるからで、単なる謎解きや残忍性に特化したものは次第にはじかれていった。

イギリス好きも相変わらずで、これらが相俟って私のお気に入りは英国ミステリである。最近ではユーモアのあるコージーミステリが私の旬になっている。

イギリスのドラマといえば、ひと頃は『ダウントン・アビー』がブラウン管を賑わせたが(液晶の時代もだろうか)、"渡る世間"のイギリス貴族版といった内容に、じきに食傷気味になってしまった。というよりも、長女のメアリー(だったか?)が苦手だった。次女のイーディスがいつも気の毒で、架空の世界にまで気を揉むことに疲れてしまったというのが本音かもしれない。

しかし、このドラマはイギリス英語の面白さを教えてくれた。執事という職業も興味深い。

そこで今回は、執事が活躍する作品を読んでみたい。


1.Jeeves Takes Charge

The thing really began when I got back to Easeby, my uncle’s place in Shropshire. I was spending a week or so there, as I generally did in the summer; and I had to break my visit to come back to London to get a new valet. I had found Meadowes, the fellow I had taken to Easeby with me, sneaking my silk socks, a thing no bloke of spirit could stick at any price. It transpiring, moreover, that he had looted a lot of other things here and there about place, I was reluctantly compelled to hand the registry office to dig up another specimen for my approval. They sent me Jeeves.

シュロップシャーにある伯父の邸宅、イーズビー荘に僕が戻った時に話は始まる。ぼくは毎夏恒例そこで一週間かそこら過ごしていたのだが、途中でロンドンに帰って新しい執事を探さねばならなくなった。イーズビー荘に同行させていたミドウズが、僕の絹の靴下をコソ泥しているのを見つけてしまったのだ。心ある者には断じて許せぬ所業である。さらに判明したところでは、奴は邸のそこら中から他にもさんざん略奪行為を重ねていたのだ。ぼくは心ならずもこの悪党をお払い箱にせざるを得なくなり、ロンドンに出かけて仲介所に別の人材発掘を頼んできた。そこで仲介所がよこしたのがジーヴスだ。

<『それゆけ、ジーヴス』(森村たまき訳)国書刊行会
以下邦訳は文章中も含めてすべて森村たまき氏訳 >

冒頭部分を少し省略したが、主人公と執事が出会う場面である。

fellow やblokeという単語がいかにもイギリス英語らしい。ウッドハウスの軽妙な文章は、声に出して読むとさらに楽しい。

さて、前夜に愉快な夕食に招かれたBertieは、二日酔いの頭で婚約者のFlorenceがくれた'Types of Ethical Theory'という本を読むという難題に向かっている。そこへ玄関のベルが鳴り、Jeevesが登場する。仲介所からやってきたと自己紹介するなり、he floated noiselessly through the doorway like a healing zephyr 癒しのそよ風のようにふわっと玄関口を通り抜ける。そして、次の瞬間姿が揺れたかと思うと、もうそこにはおらず、台所から盆にのせたグラスを持ってきてバーティーに差し出した。

‘It is a little preparation of my own invention. It is the Worceter Sauce that gives it its colour. The raw egg makes it nutritious. The red pepper gives it its bite. Gentlemen have told me they have found it extremely invigorating after a late evening.'

ウスターソースと生卵と赤唐辛子入りの飲み物を二日酔いで飲みたくなるとはとても思えないのだが、ジーヴス発案のこの飲み物は効果抜群で、バーティーはたちまち正気に戻り、ジーヴスの採用が決定した。

すると再び玄関のベルが鳴り、ジーヴスがまたもふわっと消えて電報を持ってきた。差出人はフローレンスで、至急イーズビー荘へ戻るようにとのことである。翌々日には戻る予定なのだから、何か問題が発生したと思われる。そこでバーティーはイーズビー荘へ戻る支度をするようジーヴスに命じる。旅行に着ていく服を尋ねられたバーティーは、お気に入りの市松模様のスーツを着込んでおり、この格好で行くと答えるが、

'Very good, sir.'
Again there was that kind of rummy something in his manner. It was the way he said it, don't you know. He didn't like the suit.

ジーヴスはどうも気に入らない様子である。

* * *

'Don't you like this suit, Jeeves?' I said coldly.
'Oh, yes, sir.'
'Well, what don't you like about it?'
'It is a very nice suit, sir.'
'Well, what's wrong with it? Out with it, dash it!'
'If I might make the suggetion, sir, a simple brown or blue, with a hint of some quiet twill ー'
'What absolute rot!'
'Very good, sir.’
'Perfectly blithering, my dear man!'
'As you say, sir.'

「君はこのスーツが嫌いなようだな、ジーヴス」僕は冷たく言った。
「いいえ、滅相もございません、ご主人様」
「どこが嫌なんだ?」
「大変結構なスーツでございます」
「だからどこが気に入らないんだ? いいから言ってみろ!」
「わたくしにご提案をお許しいただけますならば、シンプルな茶か紺でおとなしめの綾織りが…」
「何たるたわ言だ!」
「かしこまりました、ご主人様」
「まったく何て見下げ果てたことを言うんだ!」
「お心のままに、ご主人様」

反論がくるものと思っていたバーティーは拍子抜けする。しかし、ジーヴスの物腰は一事が万事この調子で、ここにこの作品の面白さがある。


さて、イーズビー荘へ戻ったバーティーを待っていたのは、伯父が出版社へ送ろうとしている原稿を盗んでほしいというフローランスの依頼であった。若い頃は”ピリ辛目”の人物であった伯父の回想録には何人かの名士の名誉棄損になるような内容が書かれているという。よって、この本が出版されないように処分してほしいとのことである。こうして、バーティーのドタバタ劇が始まる。
 
ウッドハウスの文章はユーモアたっぷりである。

It was a one of those still evenings you get in the summer, when you can hear a snail clear its throat a mile away.
その晩はカタツムリの咳払いが二キロ先まで聞こえるかのような静かな夏の夕べだった。


世界には執事を養成する専門学校があるそうで、最近需要が拡大しているらしいが、天才執事ジーヴスの機転が絶体絶命の危機に陥る主人公を救うウッドハウスの作品は、どれも面白い。

ウィルビー伯父さんの原稿とフローレンスとの婚約と、市松模様のスーツ。


最後には、素晴らしい結末が待っている。


<原書のすゝめ>シリーズ(14)

※このシリーズの過去記事はこちら↓


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