語学の散歩道#特別企画 秋に佇む 〜月の言葉〜
ある朝、秋は突然やって来る。
毎年地球が太陽の暑気を纏い、夏が裾を引く音と秋の衣擦れの音の境界は、ますます曖昧になっていく。残暑を奏でるはずのヒグラシも、舞台袖で何度も自分の出番を確認しているに違いない。
それでも、ある朝、秋は突然やって来る。
窓から射し込む陽射しが高度を下げ、いつもより肌寒さを感じる朝。高く透けた空には、絹のように薄い雲の端切れが流れていく。
今日から秋なのだ。
暦ではなく、五感が私に秋の訪れを告げる。
昼間の暑さにまだ夏を背負いながら、ふと街路樹のマロニエを見上げると、木漏れ日が和らぎ、広い葉が衣替えを始めていることに気づく。それから、木の影が昨日より長くなっていることにも。秋はそっと忍足で近づいて来る。
最初の挨拶を終えると、巷は瞬く間に読書の秋、食欲の秋、そして芸術の秋へと色づいていく。
日本にはいろんな秋があるけれど、不思議なことに恋の秋というのがない。センチメンタルで、ロマンティックな恋が実る秋、というのはないのだろうか。
調べてみると、恋の季節としてダントツなのはやはり冬である。クリスマスやバレンタインなどのロマンティックなイベントが目白押しで、圧倒的な強さを誇っている。凍てつく寒さに、体だけでなく心も暖かさを求めているのかもしれない。
春もまた恋の季節である。日本では年度の始まりが春にあるせいか、三月の別れの後、新しく出会う四月に、花が咲くように恋も花開いていく。
夏の恋は、花火のようである。ひと夏の恋、真夏の夜の恋などはパッと燃え上がり、またあるものは線香花火のようにチリチリと微光を撒き散らしながら、やがて消えたり実を結んだりする。
ついでながら、猫の恋の季節は春から夏にかけてらしい。
考えてみれば、木々が色褪せた衣を落とし、白い衣を新調する冬は、野に生きる動物たちにとって過酷な季節である。冬眠という選択肢を取る動物たちが、秋に恋をして冬に出産や育児をするというのは自殺行為に等しい。しかし、なかには羊や山羊のように秋に繁殖期を迎え、春に出産する動物もいる。これが本能によるものなのか、人間によって家畜化される過程で順応したのか、私にはわからない。
まあ、とにもかくにも秋の恋は、ジャック・プレヴェールの『枯葉』のように、秋の終わりとともに散ってしまうのかもしれない。
一方、実らない恋とは対照的に、豊かな実りは胃袋を満たし、芸術は心を満たしてくれる。
というわけで、感性と感覚が豊穣になる秋に、美しく空を飾る「月」と「海」を主題に俳句を書いてみよう、というのが今回のお相手とのお題である。
「月」といえば、そのまま秋の季語に使えてしまうほど、その存在感は群を抜いている。
私は、世界で日本人ほど月を愛でる民族はいないのではないかと思っている。もちろん、李白や白居易にも「月」を読んだ詩はあるが、いわゆる「民族全体の嗜好」として、これほど「月」に対して愛着を抱いている民族はほかにいないのではないかと思うのである。月の満ち欠けする姿に、新月、三日月、望月、十六夜月、立待月など十二通りもの呼び名をつけることからも、その愛情の並々ならぬことが感じられる。
さて、今回のコラボは、この「月」と秋の海という、とても絵画的な主題で三句、作句しようという話になった。
俳句に対する心得などは全くないのだが、ずいぶん前からフランスでも俳句がブームになっており、フランス語による俳句の句誌やコンクールもあるという話を聞きおよび、せっかくなので日本語とフランス語で三句、作ってみることにした。
そこへ突然、フランス語の先生からあるイベントの情報がメールで届いた。
それは、フランスのある地方で開催されるイベントとのコラボ企画であった。持ち時間は15分から30分程度で、日本にまつわるテーマについて話をするという、なんだかわかるようなわからないような内容だった。
先方とは丸い鏡のようなモニターを介してリアルタイムで交信ができるという話である。それ以上のことは何もわからない。
いったい面白いのだか面白くないのだかもわからないのだが、まあ、ものは試しである。四の五の言わずに、まずは参加してみることにした。
とはいえ、私にはこれといって特別な趣味や知識があるわけでもなく、どうしたものかと首を傾げていたところ、今回の共演のお題である俳句をこの際最大限に活用してみてはどうだろうかと思いついた。
そんなわけで、三日かけて日本語とフランス語の俳句をあれこれ思案することになったのである。
ところが、季語と五七五というリズムをフランス語で考えるのはなかなか容易ではない。何度も音節を確認しながら、単語を選び、活用を考え、できるだけ日本語に近い形に仕上げようと、あらん限りの知力を結集した。日本語の方の出来栄えは素人の平凡な句に他ならなかったが、作句をする楽しさは自分のためにあるのだと甘えて大いに楽しんだ。
イベントの当日、午前の授業で先生から集合時間や内容を尋ねられ、思わず絶句した。二日前に主催者からメールが届いていたのだが、詳細については触れていなかったので、てっきり先生から聞けるものだと思っていたのだ。場所は語学教室のメディアテークで、開始時間は17時半ということしかわからない。語学教室のイベントではないから、スタッフの方もそれ以上のことは知らないと言う。
用意してきた俳句以外、手順も要領も全くわからないまま、とりあえず早めの時間に所定の場所へ行ってみると、イベント主催者のスタッフと思われる女性が一人、準備をしていた。部屋の一隅には満月のように丸い、直径1メートルほどのモニターが設置されている。どうやら、このモニターにフランス側の会場が映し出されるらしかった。
全く予想がつかないイベントに立ち往生する不安もなくもなかったが、心強いことに同じクラスの女性が見学をしたいと言ってくれた。どうせなら一緒に参加してみませんかと誘ってみたが、俳句などはさっぱりわからないからと固辞されてしまった。ところが、聞けば書道なら少し心得があるとのこと。ならば、私の俳句を書にしたためてもらえないかと頼んでみると、面白そうだということで参加して頂けることになった。もちろん、実演つきのパフォーマンスも即興で企画した。
私たちは近くの文房具屋に駆け込み、筆ペンと半紙を手に入れ、慌てて準備を始めた。そこへ、フランス側の主催者から運転中でまだ会場に着かない、開始時間が少し遅れそうだという連絡が入った。私たちは想定内のロスタイムをフル活用して準備にいそしんだ。
こうして、いよいよイベントが始まった。
私は彼女が書いてくれた書を見せながら日本語の俳句を詠み、続けてフランス語の俳句を詠んだ。主催者のフランス人は日本語が非常に堪能であったが、現地の人々へフランス語に訳すにあたり、いくつか質問をされた。
まず、俳句がどんなものであるかということ。私は、季語と五七五のリズムを持つ世界で最も短い詩である、とだけ説明した。
それから自作の俳句を紹介し、三句とも季語には「月」を使ったと説明すると、「そういえば、日本人は『I love you 』のことを『月が綺麗ですね』と言うんですよね」と、こちらの度肝を抜くような言葉が返ってきた。「ああ、夏目漱石ですか」と言ったきり先が続かず、すっかりドギマギしてしまった。
さらに、「月のほかにはどんな季語がありますか?」と聞かれたが、フランス人にわかる季語は何だろう、と考えていると、案外出てこない。
すると、「フランスでは秋に葡萄が実り、日本では稲が実るから、この二つを季語にしてフランスでも日本でも同じ月が見えるという意味の俳句を作りましょう」と提案された。いきなりのことで、ただでさえ17音節しかないところにすでに季語が三つ、加えて情景まで指定されてしまい、もはや身動きがとれない。俳句のルールからはかなり逸脱しているが、今はそんなことを言っている場合ではない。
私は頭を抱えながら、ようやくどうしようもない句を捻り出した。
続いてフランス側からも俳句が詠まれ、ようやくホッとしたのも束の間、ぜひもう一句、と言うではないか。今度は、「秋になると月が赤くなるから、赤い月と紅葉を入れた句を作りましょう」、だそうである。
もう、どうにでもなれと、ある意味で悟りの境地に達した私は、苦肉の一句を投げ出した。
一方、フランス語の俳句はよく聞き取れなかったため、後でメールを頂けないかと頼むと、懇切丁寧に「日本語の方も少し加筆しました」というメッセージとともに俳句が送られてきた。
「月見上げ」が「Souvenirs de lune 月みやげ」となっているのはご愛嬌。
こうして、まるで秋の台風のように私たちを襲ったフランスの風は、最後には爽やかな風になって吹き抜けていったのだった。
フランス語は論理的な言語だと一般に言われるが、このイベントを通じてフランス人は俳句を作る時も論理的に考えることに気づいた。私が作った俳句について、どのようにして作ったのか、と聞かれて、私はすっかり答えに窮してしまった。ただの思いつきです、などとはとても口にできない。なぜなら、これに続いて今度は、「どうやって思いついたのですか?」という質問がきっと待っているに違いないからである。
ところで、その翌日のこと、ちょうど読んでいた本の中に偶然にもこんな一節を見つけた。
例のイベントで作句に難儀したのは、案外この辺りにあるのかもしれない、と思いあたった。つまり、すでに季語がその一部を占める17音節という短い言葉の中に、無理やり情景なり心情を詰め込もうとすると、そこから溢れ出てしまう。溢れたものをいくら削ぎ落としてみても、17音節という器の中には、盛りに盛ったフルーツパフェのようにさまざまな味が凝縮されてしまっている。
俳句論を語れる身分ではないことは承知しているが、作句とは季語が醸し出す色に、残りの音節で余白を作る作業なのではないだろうかと思う。半紙に垂らした墨が余白に滲んでいくように、季語以外の言葉は、ただ季語を滲ませるための余白に過ぎないのではないかと思うのだ。
余白に滲んだ情緒を汲み取るのは、読む側の懐である。読む人の感性や経験が、己の人生に照らして、句の詩情を読み解いていく。そういう自由さが、この短い詩の中にあるのではないだろうか。
俳句の世界は、禅の世界に似ている。
極限まで削ぎ落としたわずかな言葉で豊かな世界を表現する。そして、その余白にこそ味わうべきものがある。それ故に、多くのものを詰め込んではいけないのだ。
さて、ようやくここで本題だが、今回私が俳句に挑んだのは、みゆさんとの共演のためである。
みゆさんの創作活動は非常に幅が広く、とても一言で言い表すことはできない。投稿前に誤字脱字はないかと何度も推敲し、ブルーライトの照射を浴びて最近とみに悪くなった視力に鞭を打ちながら校正にいそしむ私の努力をよそに、「呑み書きは誤字脱字はそのまま出すのがルールなの」と、解放感いっぱいの『呑みながら書きました』は、もはや達人としか言いようがない。
↓ みゆ姐さん、「毛処すうい」って「化粧水」のことですよね?
その一方で、俳句や短歌の講評もされている。
しかも、この講評が本当に素晴らしい。前述の話ではないが、自分で作った句ですら満足に説明できなかった私には、他人の俳句を評することなどとてもできない。ところが、みゆさんは17文字に込められた想いをやさしく読み取り、丁寧にほどいてくれる。
思わずほろりとさせられるエッセイや、かわいい大人女子を奔放に綴った文章もある。
みゆさんのことを定義するのはとても難しい。
そんなみゆさんとの今回のコラボ。
「月」と「海」で秋を詠む
ということで、日本語とフランス語で詠んでみた。三句目のPort de la Lune 月の港は、かつて港町として栄えたBordeaux の異名で、ボルドーはフランスの世界遺産の一つである。
ついでに、先日のイベントのフランス人体験デザイナーの方が「加筆」して下さったフランス語の俳句もご紹介するが、もはや私が作ったフランス語の五七五のリズムは、跡形もなく消えていた…。
月代の さやかに削る 銀の波
Clair de lune blanche
gratte la bague de la mer
brillant comme l’argent
薄雲の 衣はだける 月待ちて
Attendant la lune
qui enlève des nuages
flottant dans le ciel
遥かなる 月の港に 想い寄せ
Mon aspiration
voyage Port de la Lune
au loin de mon cœur
みゆさん、今回は相次ぐコラボ企画でお忙しい中共演いただき、本当にありがとうございました。
スーパーブルームーン、雨雲でぼやけた姿を一瞬しか拝めなかった私ですが、同じ月を見上げて、今宵もグラスを傾けたいと思います。乾杯!
※みゆさんの作品はこちらから↓
<語学の散歩道>シリーズ 特別企画
※このシリーズの過去記事はこちら↓
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?