あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止をどう考えるべきか──「表現の自由」ではなく反差別・反極右による対抗が必要

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止をどう考えるべきか──「表現の自由」ではなく反差別・反極右による対抗が必要

ご存じの通り、美術展・あいちトリエンナーレで8月3日、「表現の不自由展・その後」が急遽展示中止となる事件が起きました(以下、展示中止事件)。ガソリン爆破予告などの脅迫が直接の原因だと報じられています(下記は中止理由を報じる過去記事)。

すでにこの事件については多くの方々が批判する声明を出されており、中には重要な指摘も多く含まれます。

しかし問題は抗議のほとんどが「表現の自由」というロジックに基づいている点です。つまり作家の「表現の自由」を侵害してはならない、というロジックを盾にしている抗議です。

もちろん「表現の自由」は大事で、それに異を唱えるものではありません。

しかし、今回の展示中止事件については、「表現の自由」だけで対抗するのは、非常に大きな問題があります。

端的に言います。

今回のあいちトリエンナーレ展示中止事件には、差別を許さないというロジック、極右の差別煽動を絶対に許さないというロジックで、対抗しなければなりません。「表現の自由」という一般論では、太刀打ちができないのです。

なぜか。

それは今回の展示中止の原因が、単なる脅迫などではなく、いままで散々差別を繰り返して来た極右勢力や、差別やフェイクニュースでカネ儲けや票を集める極右有名人・政治家による差別煽動活動そのものだからです。

これはわたしには、人権と民主主義を守りたい人であれば、絶対に必要な要請のように思われます。

ブログの読者なら、私がいま「バカチョン」発言を行ったマンキューソ准教授の深刻な差別問題に手を取られ、あまり時間がないことをお察しかと思います。しかしこの問題は、社会的インパクトがあまりにも大きすぎるので、何回かにわけて発信していきたいと思います。

ツイッターでもこの問題については発信してきました。とりいそぎ重要だと思われるポイントをここにかいておきます。

あいちトリエンナーレの展示中止は極右と極右政治家の差別煽動によるものだ

そして、

差別にNO、極右にNOと言えないことが大問題

だといえます。どういうことでしょうか。

あいちトリエンナーレの展示中止事件は、朝鮮高校の無償化除外に反対する弁護士に13万件も送りつけられたという不当懲戒請求事件によく似ているのです。

不当懲戒請求事件も弁護士が加害者を訴えるまでは、加害者の極右の差別煽動が「悪」にはみえなかったわけです。
今回のあいちトリエンナーレの展示中止も同じです。加害者側を告訴したり、とくに差別煽動に協力に抗議するということがなければなりません。

愛知県が行政として差別と極右に断固とした対応を取るべきで、対策が無いなら緊急マニュアルを作り、あいちトリエンナーレの安全な開催に努めるべき

また次のような提言も当時していました。

そもそもこの事件は、日本の反差別対策が欧米に半世紀以上も遅れていて、差別禁止法さえ存在せず、行政が差別煽動や極右の脅迫に異様に脆弱であることが原因なのです。あいちトリエンナーレの実行委員長は愛知県の大村知事ですから、愛知県が差別や極右にしっかりと向き合えているならば、何の問題もない話なのです。

しかし残念ながら未だ、愛知県も日本政府も、また政治家も、そして主催者も、差別に反対したり、極右の差別煽動にNOを強力に突き付けることがない(これが反差別ブレーキを踏まない、という意味です)。

差別と極右に断固反対できないことは、差別煽動と極右を勢いづかせ、さらなる暴力や犯罪を招くことになる

そのため、残念ながら8月3日のあいちトリエンナーレの展示中止事件は、差別煽動で脅迫した側である極右を大いに勢いづけ、さらなる犯罪に手を染めさせたのです。津田大介氏が登壇予定だった神戸市のシンポまで中止に追い込まれました。

事件が「歴史戦」=差別煽動戦だと正確に理解しているのは極右や極右政治家の側であり、左派・リベラル派が「表現の自由」でしか理解しようとしないのと正反対だ

極右の側のほうがはるかに問題をよく理解している、ということです。

すこし現代史をさかのぼってみるだけでこのことはわかるはずです。

問題は「右傾化」という「左右」という軸ではなく、「差別煽動アクセル」vs「反差別ブレーキ」という力関係から分析すべきだ

ですから私はいまの状況を「右傾化」という抽象的な概念で説明するのでは足りないと思っているのです。むしろ「差別煽動の力」vs「反差別の力」という力関係から分析したほうが、今回の展示中止ははるかに理解がしやすくなるでしょう。

ここに書いた、
①差別煽動アクセル
②反差別ブレーキ
については、下記記事にも書きましたのでお読みください。

日本第一党の出る幕が無いほど極右政治家の差別は過激化しているし、極右政治家よりも自分が過激であることを実証しようとする極右テロリズム発生を警戒すべきである

おそろしいのはそして、なんと日本第一党の出る幕が無い、ということです。

このことは、喜ぶべきでしょうか?(つまり日本第一党がたいしたことができなくなった=勢力が弱くなったと理解すべきか?)

私の意見では、まったく違います。逆に、日本第一党や在特崩れの連中が極右テロリズムに走るリスクが高まっている、とみるべきです。なぜか。

極右とは、つまりは「我の右に出る者はない」というアイデンティティの持ち主です。

ところがいまや、閣僚や自民党の極右政治家が、いともたやすく過激な差別を連発できるのです(ヒトラーを真似ようとか、武装難民を射殺しようとか…)。

そういう状況下で、極右はどうかんがえるか。極右からすれば、自分たちよりも「日和見主義」だと思っていた右翼が右に行っているので、それよりも右にいかねばならない=つまりより過激に差別しないとメンツが立たない、と思うでしょう。

つまり日本第一党やザイトク界隈のまじめな連中は、自分たちの存在意義が揺るがされているとおもっているはずです。まじめであれば、まじめであるほど(もっとも反レイシズム規範が強力な欧米では逮捕や訴訟・賠償覚悟でないと極右ができないわけですが、反レイシズム規範の無い日本は遊び半分で逮捕も訴訟・賠償リスクも考えずに極右もどきができてしまえる日本型極右がたくさんいるので、まじめな極右がどれだけいるかという問題はありますが、それはいまは論じません)。

※この日本型極右については拙著第五章をお読みください。

出る幕を奪われた極右が、より過激化し、極右テロリズムに走る可能性を私は最も危惧しています。

このようにざっとですが、ちょっと考えてみただけでも、「表現の自由」という対抗ロジックだけでは絶対に問題が解決しないことだけは確かです。

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反レイシズム情報センター(ARIC)代表。一橋大言語社会研究科でレイシズムを研究。11月新刊『レイシズムとは何か』ちくま新書 https://hanmoto.com/bd/isbn/9784480073532 ツイッターhttps://twitter.com/rysyrys