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【ネタバレあり】読書感想文『ザリガニの鳴くところ』

ディーリア・オーエンズの『ザリガニの鳴くところ』を読んだ。
久しぶりに、夢中で一気読みした。
年が明けてもその余韻から逃れられず、珍しく感想を書いてみる。

ネタバレを含む(というより、物語の核心部分が中心の感想な)ので、まだ読まれていない方は、ご注意ください。

ノースカロライナ州の湿地で男の死体が発見された。人々は「湿地の少女」に疑いの目を向ける。
6歳で家族に見捨てられたときから、カイアはたったひとりで生きなければならなかった。読み書きを教えてくれた少年テイトに恋心を抱くが、彼は大学進学のため彼女を置いて去ってゆく。
以来、村の人々に「湿地の少女」と呼ばれ蔑まれながらも、彼女は生き物が自然のままに生きる「ザリガニの鳴くところ」へと思いをはせて静かに暮らしていた。
しかしあるとき、村の裕福な青年チェイスが彼女に近づく……
みずみずしい自然に抱かれた少女の人生が不審死事件と交錯するとき、物語は予想を超える結末へ──。

あらすじより

"湿地の少女”の理解者

最後の展開には、衝撃を受けた。
読み終えたとき、その事実を受け止めきれず、動けなくなった。

カイアが犯人だった(かもしれない)からではない。
全てを彼女独りでやり遂げたということに対して。

彼女の孤独と強さに苦しくなったからだ。


彼女にとってチェイスの殺害は、まちの人々が騒ぎ立てたような大事ではなかったのかもしれない。
カマキリやホタルの雌がそうするように、ただ生き抜くための行動だったかもしれない。
彼女は実際、(おそらく)この殺害のことを「異質な振る舞い」と表現し、生き物としての本能に従った結果、としている。

ただ、全て独りでやり遂げて、すべての痕跡を消し、バスに乗り込み、死刑に怯え、一生その罪を抱える。
そのとき、どんな思いでいたのだろうか。詩を見つけたテイトと一緒に、その姿を想像した。
その孤独を思うと、私は胸が苦しくなった。
彼女は独りで真実を抱えたまま、テイトやジョディ、ジャンピンだけでなく、私たち読者に対しても、なにひとつ打ち明けてくれなかった。

彼女が幼い頃から、さまざまな悲しみや困難を一緒に乗り越えてきたつもりでいたのに。
きっと彼女が本当に心を許していたのは、湿地の生き物たちと詩だけだった。そもそも、孤独だとも思っていなかったかもしれない。
きっと最期はボートの上で、そんな仲間たちに囲まれて静かに眠りについたのだろう。

私は傍聴席の人々と同じように、"湿地の少女"をわかった気になっていたことに気づかされた。
彼女は私たち読者からも、見事に逃げ切ったのだ。最初から、私たちの気配に気づかないふりをしながら。

ひとり静かに涙を流していたミセス・カルペッパーは、あの、幼かった沼地の無断欠席児童がまたもや見事に逃げ切ったことに、陰ながら笑みを送った。

54 評決一九七〇年 より

隠し事と貝殻

隠し事をするなら、貝殻がいちばんだと言えるかもしれない。

10 枯れ尾花一九六九年 より

保安官のこの言葉のとおり、テイトは貝殻を無数の貝殻の中に隠した。
しかしそれまで、ペンダントは捨てられずに床下に眠っていた。
カイアはなぜ、どんな思いで、あのペンダントをそっとしまっていたのだろうか。

カイアにとって、贈り物には特別な思いがあった。
法廷でチェイスに贈ったノートを晒される場面ででの一文からも、それが伺える。

カイアの人生からは、贈り物をするよろこびというものがずっと奪われてきた。その欠落感を理解できるに人間はそう多くはないだろう。

50 ノート一九七〇年 より

彼女の人生の中で数少ない贈り物のひとつであるペンダントを、チェイスがいまだに身につけていることが許せなかったのだろうか。

チェイスは、小屋のコレクションや湿地の自然にはなんの興味も持っていなかったし、彼女もおそらくそれに気づいていた。
イタヤガイの珍しさやそこに込められた思いを理解していないことも。彼は違う種類の人間だということを。

カイアは生物(雌)としての自分と、人間(女性)としての自分の間で揺れていて、それに自覚的だったように思う。
生存のため、生物のメカニズムとして、誰かを排除してしまうこと。雌ギツネのように、帰ってこなかった母親のように。

生物として、生きるためにチェイスを排除しながらも、人間として自分の感情とバランスを取るために、貝殻を持ち去ったのだろうか。


アマンダ・ハミルトンはあのホタルの詩をかきながら、何を思っていたのだろう。

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