僕がミステリー小説をよく読む理由
有栖川有栖、綾辻行人、麻耶雄嵩、京極夏彦・・・
「本格派」と呼ばれるジャンルが、ミステリーという大きなジャンルの中に存在する。
「本格派」ミステリー小説の構成
怪しい雰囲気の洋館に住まう、怪しい住人たち。
探偵役は訳あってその場所へと赴くことになる。
そして起こる殺人事件。
雷をともなった土砂降りの雨と、なぜか繋がらない電話。
山の上に位置し断崖絶壁に囲まれたこの建物は、それ自体が密室と化してしまう。
そして誰もが不安を抱える中で1人、また1人と殺されていく・・・
恐怖が絶頂に達するころ、探偵役が事件の謎を華麗に解決。
永遠に続くかに思われた嵐は止み、救援が到着。
見事に解決された怪事件として事件は新聞で大きく取り上げられ、探偵役は名声を上げるのであった――
ミステリー小説の楽しみ
これが「本格派」のミステリー小説の基本的な構成だ。
要素といってもいい。
現実社会に照らし合わされたリアルさは追及されない。
大切なのは「どれだけ怪しいか?」や「どれだけ謎が深いか?」ということだ。
「そんな構造の建物住みにくいだろ」なんてツッコミは野暮でしかない。
愚かともいえる。
玄関を入るとすぐ地下への通路があり、その先は迷路になっている。
そして迷路の突き当たりには不気味な人形や絵画が置かれていて、その上には何やらアルファベットが記されていたりする。
この怪しさ、不気味さである。
これこそが「本格派」の醍醐味だ。
作品の終盤にさしかかっても、謎は解決されるどころか一層深まっていく。
残りのページ数がわずかになり、訳知り顔をしているのは作品中の探偵役のみという状況。
そして最終的に明かされる奇抜なトリック。
館の主人がある時点で別人に入れ替わっていたり(読み返すと細かい仕草の描写があってヒントになっていたりする)、叙述トリックになっていたり。
そして作者は古今東西のあらゆる過去のトリックを再利用することはできない。
必ずオリジナルである必要がある。
トリックが作者の数だけあるのではない。
「作品の数だけある」のだ。
例えば綾辻行人の作品群の中に同じようなトリックを使ったものはない。
他の作者の作品で、綾辻行人のトリックを使ったものもない(パクりになってしまうから当然)。
リスペクトはあるがオマージュはない。
ミステリーの読者は、新しい本を読むごとに必ず新しいトリックを体験することができるのだ。
結局は「人間」である
ミステリー小説を読むとき、探偵役と一緒に自分もその怪しい洋館の中へ入っていくような緊張を覚える。
好奇心で震えている探偵役の息遣いを、すぐ隣で感じているような心持ちになる。
そして何といっても、事件が起き、それが謎を呼び、最後にそれが解決されたときに犯人の心情を慮ることで「人間」というものを考えるきっかけになる。
これが僕のミステリー小説を読む目的なのかもしれないといつも思う。
思想書を読むのと同じ目的なのだ。
サルトルの『嘔吐』を読むのとミステリー小説を読むのは同じことだ。
最後に
「謎」とは人間の心のことで、これはまさに謎だらけの存在なのだ。
ミステリー作家がいくつ作品を書いても、書きつくすことができない。
「もうこれ以上に謎はありません。そのため小説の中で事件はもう起こり得ません」ということがない。
謎をともなった事件は人がある限り起こり続ける。
ミステリー小説も書かれ続ける。
謎が解決されたとしても、それは新しい次の謎への扉を開いただけのことなのかもしれない・・・
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