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独りになって気づいたこと

こんにちは、大川春哉です。先日「【老人と海/ヨルシカ】を語りたい」という記事を投稿したのですが、実はその制作に随分とやる気を注いでしまい、燃え尽き症候群さながら投稿の間が空いてしまいました。ちなみにやる気と記事の質は比例していません。最近は受験勉強も緊張感が増してくる時期となり、これからの投稿はさらに頻度が低くなりそうだなぁ、なんて吐かしています。まだ前回の記事をご覧になって無い方へ。面白いかどうかは置いておいて、慈悲の心で少しでも覗いていただければ、筆者は泣いて喜びます。

閑話休題。

私は今、高校を休学しています。休学するというのは、ただ平日の授業が無くなるというだけではなく、人との繋がりが無くなるということでもあります。一般的な高校生にとって学校という存在は、社会そのものと言っても過言ではありません。今回はそんな社会から抜け出してみて、気づいたことを書いていこうと思います。

休学生活が始まる以前は、やはり今後の生活に漠然とした不安がありました。自分で生活リズムを管理できるのか、孤独に押し潰されないだろうか、受験勉強の成績は上がるのだろうか。どれも今となっては杞憂であった、と言ってしまえば嘘になりますが、少なくとも休学前に比べれば、幾分かのびのびと暮らせていると思っています。休学生活がスタートして、一番始めに感じた変化をあげるとするならば、それは殆どストレスを感じなくなったということです。その要因はおそらく、人付き合いの量が格段に減ったことにあります。ストレスを感じなくなったと言いましたが、実は休学生活が始まってからしばらく経った後に二度、精神を病んでしまった時期がありました。そのどちらも引き金は一人の人間でした。アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と言いましたが、私の場合それがかなり顕著にあらわれているようです。

この生活が始まってから、基本的に私の生活の登場人物は「わたし」のみとなりました。なので必然的に「わたし」の行動や思考のみが人生という物語を作っていくわけです。他の登場人物がいた休学前の生活では、周りのことに意識を向けるだけでいつも精一杯でした。でも今は違います。自分とは何か、自分は何処にいるのか、自分は何故存在するのか、自分は何のために存在するのか。そういった「わたし」と向き合う時間が格段と増えました。そして、その営みを私は初め「悩み」として扱っていました。しかし、私はこの「わたし」の問題が哲学の範囲であることを知ります。きっかけはデイビット・チャーマーズがTEDに出演した際に行った「あなたの意識をどう説明しますか」というプレゼンを聞いた時でした。私の言語化できない疑問を、他人が言及していたことに私は衝撃を受けました。一人で抱えていたその問題は、実は遥か昔から現代まで、ありとあらゆる人が抱える共通の問題だったのです。哲学史を遡ってみれば耳にたこができるくらい、その問題について哲学者達がああだこうだと語ってくれます。当時の私は自分一人で抱え込むことに限界を感じていました。なので、彼らが背中を押してくれるという事実を知った時、私は安堵と希望と感謝の入り混じったなんとも言い難い感情を抱いたのを覚えています。同時に一人で抱えていた「悩み」は、人生の「課題」へと昇華しました。高校を休学して私は一人になりましたが、不思議なことに今のほうが孤独を感じていないのです。

次回に続く

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