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(2024/06/28/金)西の正倉院の展示室の様子①(中央の部屋)



本日の画像 
西の正倉院の入り口付近を、内部から撮影した写真

 今回も引き続き、先日(2024/06/23/日)、宮崎県みやざきけん東臼杵郡ひがしうすきぐん美郷町みさとちょう行って撮影した西の正倉院しょうそういんに関連する記事です。

 今回も、一目見ただけでは理解出来なかった部分について、私自身、頭を整理する意味も込めて、備忘録を作りました。

 本日は、西の正倉院の内部、中央の部屋(中倉?)について、纏めてみたいと思います…


※前回の記事




百済王伝説の謎と真実

 西の正倉院に入って、一番初めにこちらの展示パネルが設置されていました。

やじるしは、
私が実際に移動した大まかな経路です。
画面右下に有る、端の台の様な物は、
カウンターの様な作りの机でした。

 『百済王伝説の謎と真実』と書かれたそのパネルには、この宮崎県みやざきけん東臼杵郡ひがしうすきぐん美郷町みさとちょうに逃げて来た、百済王の伝説について、時系列で解り易く書かれた物でした…。

 今回は、後から自分で見て解り易い様に、縦長に切り抜いた画像を掲載いたします…。




右奥の部屋『百済王伝説-宝物は語る』

 『百済王伝説の謎と真実』の展示パネルの横のには、『百済王伝説-宝物は語る』と刻まれた木の看板が有り、奥には、私が見たかった、神門神社の屋根裏から出て来た、1003本のホコが見えます…。

 この時、このまま奥に行っても良かったのですが、この真ん中の部屋の展示を全て見て居なかったので、この部屋『百済王伝説-宝物は語る』は、全て観覧した後で最後に見る事にしました…。




出入口の横に有った、ひび割れた巨大な柱。

 『百済王伝説の謎と真実』パネルの後ろ、入り口に使われている柱には、ヒビが入った木材が使われていました…。

 その、ひびの入った柱の側面に、小さなパネルが設置されていました…。

 パネルを拡大した所。

 木材のひび割は、奈良時代と同じ技術水準で西の正倉院を経てた為、あえて割れを止めず、そのままにして使われている事が、この文章から分かりました…。




入り口側の壁の中央部分の壁に展示された『五色布』と、『歴史年表』『正倉院に秘められた知恵と謎』に関するパネル。


五色布

 ヒビの入った柱を見上げると、そこには巨大な五色布が、入り口の壁の上、三方に掲げられており、かなり独特な雰囲気です…。

 しかし、デザイン的には、迫力が有って好きです。

 この布の下に、『歴史年表』『正倉院に秘められた知恵と謎』に関するパネルが設置されていました…。

 備忘録として読み易い状態で残したいと思った為、それぞれ細かく分解して残したいと思います…。


歴史年表

 こちらは『歴史年表』です。

 歴史年表の日本史の部分に、神門神社に関連する項目が赤い文字で書かれていました…。

赤い文字の部分のみ、抜粋致します。
718年  神門神社創建
1607年  三十六歌仙扁額さんじゅうろっかせんへんがく(十四枚)
1661年 神門神社本殿(現存)建立
1607年  三十六歌仙扁額さんじゅうろっかせんへんがく(十九枚)


正倉院に秘められた知恵と謎

 『歴史年表』の下には、『正倉院に秘められた知恵と謎』と言う、正倉院作りに関する記事が書かれていました…。

 備忘録として、後から読み返す時に読み易い様に分解してみました…。

 こちらの『歴史年表』『正倉院に秘められた知恵と謎』に関するパネルの横から、先程観覧した『百済王伝説の謎と真実』のパネルをを撮影した写真です。

 この位置から見た景色が良い感じだったので、ついつい写真を撮影してしまいました…。




ロフトの様な二階の様子

 これまで読んだパネルの後ろに、ロフトの様な二階が有りました…。

 周りを見たのですが、この二階に有る階段が無かったので、この二階には入れない使用の様です…。

 又、二階には、謎の矢(破魔矢?)の様なオブジェとつづらの様な箱等が展示されていました…。


 中央付近には、階段が設置されており、屋根裏へ上がれるようです…。

 その奥には、建物の棟上げ式等で見られる扇子車の様な飾りが有りましたが……良く判りませんでした……。

 これら、棟上げ式の飾りについて、解り易く解説されていたHPを見つけたので、備忘録としてURLを残したいと思います…


 二階の階段の下に、何やら小さなパネルが付けられていました…

 拡大すると…屋根裏に上る階段との事でした…。


棟板(?)

 その階段の横から天井を見ると… 階段は屋根裏まで続いており、その屋根裏には、何やら文字の書かれた板(棟板?)が有りました…。

 又、ロフトの様な二階の床板にも、パネルが付けられていて…。

 パネルには棚板と書かれており、実際の正倉院も、この様な構造をしている事が書かれていました…。

 上記のロフトの様な二階の床板の下は、三つのエリアに分かれており、そこにはそれぞれ、この西の正倉院に使われた技術や工具、歴史について書かれていました…。




正倉院と技と巧み

 先ずは、向かって一番右側、の床下に展示された『正倉院と技と巧み』についての展示です…。

 このコーナーには、この西の正倉院に使われた工具や木材、技術について展示されていました…。 


『正倉院の技と巧み』の解説パネル

 先ずは、壁に展示されている、『正倉院の技と巧み』のパネルについて、備忘録を残したいと思います…。


床柱(予備材)

 展示スペースの右端の床には、かなり太い丸太が展示されていました…。

 その展示の上に『床柱』と書かれた解説文が展示されていました…。

 『直径60㎝、樹齢400年の木曽の天然檜』と言う事です。

 又、『小口には検査時の刻印が有る』との事ですが…

 よく見ると、薄っすら小判型の刻印が見えました…。
(この刻印の実物は、次に紹介する工具の中に有りました)


工具類

 上記の床柱(予備材)の左側には、工具が入ったガラスケースが展示されていました…。

 この展示の中央部に、先程の床柱(予備材)に使われたと思われる『正倉院』と彫られた刻印が有りました。

 他にも、『和釘』『合釘』『カスガイ』等の工具、『海老鍵』等の鍵が展示されています……。


ヤリカンナ

 ガラスケースの横には、西の正倉院の壁に使われた木材と同じ様な形の木材と、その上に2本の『ヤリカンナ』が展示されていました。

 奥に展示されているヤリカンナ。

 手前に展示されているヤリカンナ。

 ヤリカンナの横には、2本のヤリカンナの鞘が展示されていました…

 又、その木材の上には、『校木はなぜ六角形か』についての解説文が展示されていました…。

 解説文部分に近づいて撮影した画像です…

 六角形に成型された理由について、考えられる理由が記載されていました…。

 私にとっては初見の情報だったので、面白く、為になりました。
(今後の作品製作に、何らかの形で生かして行きたいと思います)


左端に展示された看板

 こちらは、この『正倉院の技と巧み』スペースの左端に展示された、ハングルの看板です。

 何が書いているのか判りませんでした…。

 



鬼瓦(複製品)

 こちらは、鬼瓦の構造について展示されていました…。

 鬼瓦がどの様に設置されているのか、解り易く展示されていました…。

右側から観察した様子。写真を拡大すると、
瓦が銅線で固定されているのが解ります。
中央から観察した様子。
左側から観察した様子。
瓦の下の木材が、どの様に造られているのか、
解り易く展示されています…。

 鬼瓦を正面から観察した写真です。

 瓦の上下には、蓮の花の様な円形のデザインが施されていました…。

 鬼瓦の石膏型。 
その手前には、解説パネルが展示されていました…。

 解説パネルを拡大した写真です。

 こちらの鬼瓦の原型は、大案寺の鬼瓦だと言う事が書かれています…。

 私はこの『大案寺』と言う名称を始めて聞いたので、調べてみた所、公式HPが出て来たので、そのHPとグーグルマップのリンクを、備忘録として、リンクを貼りたいと思います…

 上記の寺院の鬼瓦を原型として作られた鬼瓦が、西の正倉院に使われている様です…。


左端に展示された看板

 こちらは、この『鬼瓦(複製品)』スペースの左端に展示された、ハングルの看板です。

 何が書いているのか判りませんでした…。




西の正倉院御造営財

 一番左に展示されていたのは、『西の正倉院御造営財』と書かれた立て看板が掛かれたエリアが有りました…。

パネルの手前の展示物の写真を撮影し忘れた為、
展示物の詳細な写真が無く、備忘録を残せませんでした。


『西の正倉院の創造』と書かれたパネル

 こちらには、着工までの様子や儀式の様子について書かれた文章が展示されていました…。
 
 ただ、一部、読めない部分が有りました…

 それぞれ、近づいて撮影した画像です…。

 更に読み易くする為に、更に拡大し、個別に分解しました…。

一部、読み難い部分にillustratorで修正を加えました…。


左奥に展示された、ノシが付けられた道具(?)

 こちらの写真を撮影した時、少しブレてしまったので…展示物の名称が掛かれたラベルを確認出来なくなってしまい、これらの棒(工具?)の名称が判りませんでした…。

 この一番左端の、模様が施された太い木材が気になり、数枚写真を撮影しました…。

 ただ…この棒の名称を記載したパネルを撮影していなかった為、この棒の正体が判りません…。

 斜めから撮影した写真です…。

 模様自体は、表に書かれた物と変わらない様です…。

 



『西の正倉院の創造』コーナーから、入り口方向に振り返って撮影した写真

 こちらは、『西の正倉院の創造』コーナーを見終わった後、振り返った時に撮影した写真です。

 この位置から出入口の方を見ると、入り口が四角い構造になっている事や、五色布の垂れる様子などが良く観察出来るので撮影してみました。

 この西の正倉院には、この建物の中央に有る、この出入り口のみが外と繋がる出入り口の様です…。
(もしかしたら他にも出入り口が有るかもしれませんが…私は確認する事が出来ませんでした…)

出口には、『非常口』の緑のマークが有ります…




出口付近に有る展示スペース

 『西の正倉院の創造』コーナーの真後ろ、出口の前には、三つの展示ケースが置かれていました。

 これらの展示ケースの中には、この『西の正倉院の創造』に関連する資料が展示されています。

 それぞれ、ケースごとに別けて紹介したいと思います…

一番左端の展示ケース 
大城宗憲氏に関する資料

 戦時中に旧南郷町の神門に疎開されていた、沖縄県の玉泉洞観光(株)社長の大城宗憲氏が寄贈された物に関する資料と、新聞記事が展示されていました。

 大城宗憲氏について調べた所、2022年2月24日にお亡くなりになっていると言う記事が出てきました。

 この方は戦後、沖縄で活躍された方の様ですが、私は全く知らなかったので、今度詳しく調べてみたいと思います…。


中央の展示ケース 
南郷町が受賞した賞に関する資料その①

 こちらは、南郷町が受賞した賞に関する賞状やトロフィー、盾などが展示されていました…。

 それぞれ、私は全く知らない賞だったので後から確認したいと思い、一つづつ撮影しました…。

 『これまでに南郷町が受けた表彰等』と書かれた、賞の一覧表が展示されていました。

 こちらには、2002年までの受賞記録が掲載されています…。


一番右端の展示ケース 
南郷町が受賞した賞に関する資料その②

 こちらも、先程の展示ケースと同じく、受賞した賞の賞状と盾が展示されていました…。


『お客様へ』と書かれた文章

 こちらの文章は、上記の一番右端の展示ケース内に展示されていました。

 文章は、平成12年(西暦2000年)に、当時の村長が書かれた文章の様です…。

文章の一部が見切れてしまっています…。
上記の、賞状に隠れて見切れている部分を、
少しのぞき込んで撮影してみました…。




左奥の部屋『百済王伝説ー祭りは語る』へ…(To be continued..)


 出口付近の展示を見終わり、中央の部屋の展示物を撮影し終わった為、最後にパノラマ写真を撮影しようと思い、部屋の中央に戻ろうとした時、隣の部屋の入り口と、看板が目に付いた為、写真を撮影しました…。

 部屋の入り口には『百済王伝説-祭りは語る』と書かれた木の看板があります…。


中央の部屋(中倉?)の中央から撮影したパノラマ写真

 隣の部屋の入り口と、看板を撮影し終えた事で、この部屋の気になる展示物を撮影し終えた為、この部屋から出る前に、最後に部屋の中央からパノラマ写真を撮影してみました…。


 パノラマ写真を撮影し終えたので、次の部屋へ行く事にしました…。

 こちらの部屋からは、音楽とナレーションが響いており、かなり賑やかです…。


感想

 今回は、3つのエリアで区切られた内部の、一つ目の部屋についての備忘録をまとめてみました…。


 ここまでの資料を読み返して、この美里町は、日本に亡命した百済王とその子孫が、動乱から逃げて来た土地だった……と言う事を知る事ができました…。
(地元(宮崎県)の事だったので、何となくは知っていたのですが、ここまではっきりとした事情を知らなかったので、勉強になりました)

上の記事の解説パネルの画像

 確かに、この『西の正倉院』と『神門神社』に、宮崎市内からバイクを運転して来たのですが、一部、危険な場所が有る道だった…と言う印象が強いです…。
(道路は工事関係者の方々により、頻繁に整備されてる様なので、危険な状態は一時的な物だと思います)

この様な危険な場所を補修や開発をして下さる方々がいらっしゃるおかげで先へと進めるので、
関係者の方々には感謝しかございません…

 道が舗装され、移動し易くなった現在でも、道が無ければ、崖崩れや落石で安全に到達する事が出来ない、秘境の様な土地だと思うので…

 百済王族一行がこの場所に逃げて来た約1400前の当時は、海からもかなりの距離が有り、道も険しいこの場所は、動乱や追手から逃れて、静かに隠れ住むには最適な場所だったんだろうな~と、しみじみ感じました…。

 又、少し離れた場所には、後に平家が逃げて来た椎葉村と言う土地も有るので、この宮崎と言う土地の山中は、戦乱や追っ手から逃げるには良い場所だったのかもしれません……

 

 今回は、ここで一旦記事を終了したいと思います…。

 次回は、二つ目の部屋『百済王伝説-祭りは語る』の内容についてまとめたいと思います。

 この後も、西の正倉院の内部で撮影した写真を、備忘録も兼ねて、まとめたいと思います…。



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投稿時間2024/06/28/1313
最近はただの日記になっていますが、自分自身と作りたい作品について更に突き詰めて行きたいので、この作業を暫く続けて行きたいと思います。


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