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The cream of the notes

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森博嗣さんのやつです。
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記事一覧

『積み木シンドローム』を読んで

物やシステムの仕組みを考える、調べる、学ぶことを疎かにしてきたから、自分の行動に納得がいかないことがあるのだと感じた。

この短所が「頭でっかち」の由縁に繋がるのだろう。それは結果の理想化を伴うと考えるからだ。

仕組みを追わないことと楽観視は紙一重だろうが、楽観視が育むものは何なのか。

『追懐のコヨーテ』を読んで

『追懐のコヨーテ』を読んで

正直、読書も感想文も暇つぶしに過ぎない。
しかし、この手の暇つぶしには罪悪感なるものが
付き纏わないので好んでいる。
役に立つと思い込むことが多いからだろうか。

書籍は基本、白と黒だけで構成されており、それだけでは愉快な気持ちにならない。
だが笑ってしまう。そんな価値を探求したいのだろう。

『ツベルクリンムーチョ』を読んで

『ツベルクリンムーチョ』を読んで

エッセイは自由度が高く、その点でSNSと変わりない。
しかし、どちらも過多摂取は推奨できないだろう。
なぜなら、自らの判断基準を失ってしまうからである。
読書を通じ、こう思うなど、少しは驚きがある。

つまるところ、自分を主体に添え、物事を抽象化する能力、思考力が育たない点に問題はある。

『つんつんブラザーズ』を読んで

『つんつんブラザーズ』を読んで

人生を常に前向きで捉えた方が良い?
私は、そうは思わない。
死ぬまでまやかし続けるのと同義ではないだろうか。
少なくとも1人でいる時は絶望していてもよい。
その方がより深みを味わえるとも考えている。
今はただ否定的な評価を下されるらしいが。

どうして片面のみを追い求める者が賢しくいれようか。

『月夜のサラサーテ』を読んで

『月夜のサラサーテ』を読んで

この文量をネット上では読まないだろう。
その厚みを通じて安心感を覚えるからだろうか。
また、無料ならなおさら読まない。

そんなことはどうでもいい。
歳の離れた人に共感するということに注視したい。
共感は主観的であるがゆえに、バイアスがかかっていることは否定できない。
理解者がほしいのだろう。

『つぶさにミルフィーユ』を読んで

『つぶさにミルフィーユ』を読んで

私は何事においても経験に乏しい。
目覚ましい思い出からは遠く離れている。
だが、それ以前に感性が必要なのではないだろうか。

極端な話、経験をいくら積んでもそこから抽出する要素がなければ、無意味も同然ではないか。

同じ対象から「私」だけの考えに昇華させる。
感性に磨きがかかれば何も怖くない。

『つぼみ茸ムース』を読んで

『つぼみ茸ムース』を読んで

私が小説を書き終えたからだろうか。
あるいは筆者に馴染んだからだろうか。
共感する点と落胆する点が増えた。
まあこんなことはどうでもいい。

やはり少数にとって時間というものは大切らしい。
私はこのことを学んだ。
しかし、時間そのものより、それに対する考え方が
諸々の価値を何倍にもするのだろう。

『ツンドラモンスーン』を読んで

『ツンドラモンスーン』を読んで

エッセイは面白おかしいのだと知り、読み続けている。
しかし今、これ以上森博嗣の著書を味わってゆくと、
酸素中毒を起こしかねない。

エッセイを他に知らないまま、
彼の新刊を待つだけなんて大損もいいところだ。

自分の好みだけで重ね塗りしたとしてもいずれ何かが
綻んでくるのだろう。何事においても。

『つぼねのカトリーヌ』を読んで

講談社から出版されているこれらのエッセイは、
もはや解説のために読んでいるといっても過言でない。
笑わなかった試しがないのである。

おそらく、自分がおもしろいと思うものを
書いていることがミソになるのだろう。
だから今綴っている文章は面白みに欠けるのであり、
読む方々もイライラするのである。

『つぼやきのテリーヌ』を読んで

『つぼやきのテリーヌ』を読んで

なんだろうか…この全力のおふざけは…
ある環境に対しての常識や通念、諸制約や諸条件を
知り尽くした上で「あえて」そこから離れる、逸れる。
この意味においての知能犯ほど愉快な者はいない。

森博嗣と嗣永桃子は黒だ。
今までの基盤を覆す。次にその場で1人舞台を拵える。
悔しいが楽しませてもらった。

『つぶやきのクリーム』を読んで

『つぶやきのクリーム』を読んで

森博嗣が紡ぐエッセイ集の基本的な姿勢を
知ることができる貴重な一冊だと感じた。

さて率直な意見であるが故に得るものはある
という話をこれからしたい。
臭い物に蓋をせず、なぜ臭気を感じるのか、思索するのが自分のためではないだろうか。
一次的な情報の判断で終わらせるのは惜しい。

ももち好きです♡