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山里亮太「天才はあきらめた」を読んで

努力の天才の怪獣が、愛することを知る物語だった。


芸人南海キャンディーズ山里亮太さんの「天才はあきらめた」を読んだ。
(筆者の山里亮太さんのことを、以降山ちゃんと呼ぶ)

この本は山ちゃんの半生を自分で振り返った自叙伝みたいな本だ。

山ちゃんが芸人を志して、大阪に来て、よしもとの養成所(NSC)に入り、相方を見つけて、ネタを作ったりM-1グランプリに挑戦したりして、芸人になっていくところが、書いている。

私はこの本を、努力の天才の怪獣が、愛することを知る物語だと思った。

※以降、山里亮太の「天才はあきらめた」についてのネタバレを含んだ感想が書いてあります。



この本を縦軸として貫いてるのが、山ちゃんの圧倒的な努力だ。


ネタ、ネタへの反省点、ダメ出し、言われて嫌だったこと。
1日の振り返りをノート(後半では自ら"地獄ノート"と呼んでいる)を必死にがむしゃらに書きまくる。

養成所に入った最初の頃は、何をしていいかわからないので、爆笑問題のしゃべりを書き写し、ダウンタウンの番組で笑ったところを「なぜおもしろいと思ったのか」書く。
ネタを書き、ボケのバリエーションを何十個も書く。
講師に「そんなキャラクターすぐ飽きられる。だから0点」と言われたら、言われた言葉と自分がいつか売れた時にどんな復讐をするかを(しかも陰湿な復讐)、怨念を込めて地獄ノートに書きまくる。


それによって、少しずつ自身いわく"張りぼての自信"を得て、自信をガソリンに、突き進んでいく。

だが、そんな努力を持ってしても、最初の頃はなぜかうまくいかない。

山ちゃんは相方を見つけるが、一人は山ちゃんがひどい扱いをしすぎて、精神的に疲れ切り、髪は薄くなり、頬はこけて死神のようになり、「もう許してくれ……」と言われて辞めてしまう。

もう一人は山ちゃんのあまりのひどすぎる扱いに、最後は「ころすぞコラ!」と本気でキレられて、辞めてしまう。しかもこれから売れるかも、というチャンスが見えている時に。

さらに山ちゃん一人でピン芸人でやってみるも、鬼のようにウケない。

そんな努力してもうまくいない山ちゃんの歴史に、ターニングポイントとして横軸を貫くのが、しずちゃんだ。

しずちゃんを相方にし、今の南海キャンディーズになることで、山ちゃんの意識が、愛されるから愛する、に変わり、行動の方向性が変わっていく。



そもそも山ちゃんの芸人になりたいと、思ったきっかけは「モテたい」だ。

その後組んだ二人の相方は、一人は山ちゃんに「お笑いに熱い」と褒めて従ってくれる人で、二人目も「山ちゃんと組めるなんて嬉しいです」と言う人で、向こうから愛されてコンビを組んでいる。


つまり山ちゃんは愛されたいと叫んで努力して、愛してくれる人を仲間につけて、もっともっとみんなに愛されたいと進んでいる。


だが、三人目の相方、しずちゃんはちがう。

南海キャンディーズになる前、しずちゃんは元々別の相方とコンビを組んでいるが、山ちゃんがコンビを組んでくれと申し出る。

山ちゃんがしずちゃん選んだ理由は、男女コンビは珍しくて競争相手が少ないから相方は女性がいいとか、かわいらしい女の子は受け入れられにくいから、女の子女の子してない方がいいとか、打算的なこともあるのだが、単純にしずちゃんのボケが良かったという点があったそうだ。

しずちゃんを自分の相方にしたいと思った山ちゃんは、しずちゃんの情報を集めた。当時のコンビのネタを観察し、しずちゃんの好きなお笑い、漫画、番組、フレーズを叩き込み、「お笑いのセンスが合う人」と思い込ませる準備をする。


そして、ケーキバイキングで、しずちゃんの好きなものを散りばめた話をしながら、コンビを組もうと持ちかける。

山ちゃんがしずちゃんに後日聞いたら、この日に告白されると思っていて嫌だったと言っていたそうだ、と本に書いてあるのだが、これはもはや山ちゃんの愛であり、告白と同じではないだろうか。



山ちゃんはしずちゃんを相方にした後も、引き続きネタを書くがおもしろいものにならない。

ここでふと立ち返る。

自分がしずちゃんを相方に選んだ理由は、しずちゃんがおもしろいボケだから。

では、しずちゃんのボケを活かしたネタを作って、自分はボケを際立たせるための存在、ツッコミになってみては?

今までガチガチに何でも自分で全て決めていた山ちちゃん、「笑いは自分がとるから、相方はただ(自分にはない)ルックスの良さで客を引っ張ってきてくれればいい」、とか言ってた山ちゃんが、しずちゃんのボケを活かして自分は一歩引くという形のネタを作ってみる。

そしてしずちゃんのボケを際立たせる形のネタをした時に書いてたのがこれだ。

一見格好悪いかもしれないけど、漫才が楽しいと思える幸せには何にも勝てなかった。この幸福感は、天才しか味わえないと思っていた。楽しいという感覚をネタに織り込む、それが自分でもできたというのが本当に嬉しかった。

山里亮太「天才はあきらめた」p134



この本の前半、山ちゃんがしずちゃんに出会う前に、山ちゃんが千鳥と笑い飯(どちらもお笑い芸人のコンビ)に「どうしたらいいネタが作れるのか?」と聞くエピソードがある。

その答えは2組とも一緒だった。
「自分が客席にいたとして、その自分が見て笑うものをやっているだけ」
当たり前というテンションで出されたその答えは、僕にとっては衝撃的だった。
僕が考えているものには、いつだって自分はいなかった。お客さんは何を言ったら笑うのかばかりを考えていた。
もう1人の自分を置く……。もう1人の自分って?自分は何を笑っている?何がしたい?俺って一体?と考え始めたものの、すぐに答えは出なかった。

山里亮太「天才はあきらめた」p114


自分がおもしろい(=自分を愛する)がわからないと言っていた怪獣が、しずちゃんとのネタで、ついに自分がおもしろい(=自分を愛する)、ということを知る。

愛されたい一心で突き進んできた努力怪獣は、人を愛する・自分を愛することに気づくのだ。


そうして南海キャンディーズは、いつしか芸人として受け入れられるようになっていく。



この本の解説は、オードリーの若林正恭さんが書いているのだが、この本を端的に説明していると思ったので引用する。 (この解説もひねくれてて愛があって良いので読んでほしい)

それでも、僕には一分の優越感があった。
そのジャンルは「利他的な愛」である。
山里亮太は、噛みついて自己否定を感染させようとするゾンビに常に追いかけられている。
そのゾンビから努力という全力疾走で逃げ続け、気づいたら先頭集団を走っていたという「犬に追いかけられるのび太的な一等賞」なのだと思っていた。(山ちゃんごめん!)。
常にゾンビを見ているから、他者に対する興味はあまりないと高をくくっていた(山ちゃんごめん!)
だが、こないだ南海キャンディーズがとある番組に出演していたのを観た時ヤバいと思った。
しずちゃんへの眼差しが、愛と感謝に満ち溢れているように感じたのである。
(中略)
妖怪が愛を知ったら、どの物語でも感動が止まらない。
山里亮太が、ついにグラウンドだけでなく立ち技もタッグ戦もバトルロワイヤル形式の試合でも今まで以上に強者になってしまう。
彼が、愛をさらに膨らまし伴侶を見つけでもして、人情系あったかMCになるのがぼくは怖い。
それだけは、阻止しなければならない。
みんなで監視しないといけない。

山里亮太「天才はあきらめた」p253



山ちゃんがその後、誰と結婚したのかは、周知の事実だろう。



この本は、もちろん、失敗の多い一人の芸人の半生として読んでもおもしろい。

努力の本としても、最初のがむしゃらな方向性の見えない努力から、ゴールを想定した努力に変えていく様は、学びがあっておもしろかった。

あんな天才みたいに見える山ちゃんだって、こんなに頑張ってるんだから、私なんて全然まだまだやん、負けてらんないねえって思った。




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