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あくびの隨に 13話

前回

 木々の間を縫うように、一つの影が疾駆する。
 幹を蹴り上げて複雑に身体を跳ね、敵の意識を散らせた。
 地上で追いすがろうとする腐土の権現ふどのごんげんたちは、猿の如き身軽さを持つその影に対し、追い着くことは適わない。声帯を持たず、呻き声すら出せない偽りの面を険しくさせ、土人形の集団は無造作に虚空を掴む。

「――土へと還れ」

 声とともに、ひゅん、と飛来する細い陰影。
 それはしなる弦の音とともに射られた矢だった。
 影は素早く移動しながら弓をつがえ、的確に腐土の権現の眉間にこれを打ち込んでいたのだ。
 疾風迅雷の如き弓矢の応酬に、土の塊は次々と霧散して消え去っていった。
 最後の一匹が倒れると、影は息も乱さず着地する。
 そこで影は初めて己に向けられる視線に気づいた。すかさず背中の矢筒から矢を抜き、振り返りざまに弓へとあてがう。

「ま、待って!」

 危うく射抜かれそうになったところで、逸流いつるは両手を上げながら声をかけた。
 腐土の権現と戦っていたのは、二十歳前後の女性だった。
 長い髪を後頭部で丸く結い上げ、富士額の特徴的な顔には凛々しさと華やかさがある。
 毛皮を肩に通した装束は、旅人というよりは狩人。左胸に胸当てをつけている以外は、またぎのような装いだった。

「……人ですか」

 弓を構えた手を下ろし、女性は矢を背中の筒に戻す。
 安堵する逸流も両手を下げ、彼女の警戒が解けたことを確認して歩み出た。

「驚かせてすみません。あの、僕は逸流です」
「ただの旅人ではなさそうですね。ひとまず名乗られたからには、こちらも返すのが礼儀というものでしょう」

 どこか武人然とした雰囲気で、女性はすっと一礼した。

此方こなたの名は一陽いちよう。この封節の森で、腐土の権現を討ち滅ぼす者なり」
「え……こんなところで、それって」

 一瞬、逸流は灰之防人かいのさきもりという言葉が過ぎった。

 灰之防人は封節の社を守るために、腐土の権現と戦っていた存在だ。
 しかし、それは羅刹らせつが現れてから失われた役職である。
 当然の如く、一陽はそこに当て嵌まる人物ではなかった。

「断っておきますと、此方は神に与する者ではありませぬ。あのような休眠を貪るだけの愚物に、此方の弓を預けるつもりは毛頭なきことですから」
「は、はあ……」

 恐れを知らない物言いに、逸流は思わず困惑した。

「ふむ。休神きゅうしんとはよく言われていたものだ。愚物と称されても異論は挟めぬわな」

 と、逸流の後ろから出てきた稲が、一陽に関心を示していた。

「おや、同伴もおりましたか」

 一陽は稲の姿を視界に収めると、逸流と見比べて低く唸った。

「なるほど……ええ、此方は引き留めませぬ」
「何のことですか?」

 逸流が疑問符を浮かべると、一陽は何やら誤解を始める。

「各地に腐土の権現の跋扈する世。悲観する心持ちは此方にも理解できます。親より授かった尊き命を、無下にする覚悟がおありでしたら、如何様にお好きに。此方は絶対に止めませぬ。ええ、誠必ず断言しましょう」

 猛禽類の如き眼光を携えて、一陽は言葉に威圧を含んだ。

「どう考えても止める気じゃないですか。というか、僕たちはそんなんじゃないです」

 言動の差に若干の呆れを覚えるが、彼女の性根を垣間見て、逸流は僅かに気が緩んだ。
 一陽という女性は、決して悪い人間ではなさそうである。
 腐土の権現との戦いに身を投じている辺り、正義感に溢れた人柄なのは間違いないはずだった。

「それでは貴君らは、なぜ封節の森などに?」

 素朴な疑問を抱かれて、逸流は稲に目配せする。
 稲が瞳を閉じて頷いていたので、逸流は素直に目的を語った。

五大光家ごだいこうけという名前に、聞き覚えはありますか?」
「……五大光家ですか」

 雲行き怪しく、一陽は浮かない顔をした。
 今の留包国の人間は五大光家の名に聞き馴染みが薄い。道行きに出会った女性が、そう都合よく知っているはずも――

「存じておりますが、貴君らはあのような伝承を追う者なのですか?」
「えっ――あ、はい」

 逸流は目を点にして頷いた。

「……道は隨に事もなし。やはりこれも、定礎となり得る事象のようだ」

 稲が何やら呟きつつも、これがこの上ない出会いであることは間違いなかった。
 一陽の話によれば、日が暮れると腐土の権現は活発化するらしい。
 その前に三人は、場所を移動しながら意見交換していく。

【続】


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