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あくびの隨に 8話

前回

 月明かりに漂う、白く霞んだ燻りがあった。
 逸流いつるいねが履物に足を通して中庭を歩くと、薄闇の中に仄かに赤らむ火元を発見した。
 そこには、縁に腰かける透非とうひが静かに煙管きせるをふかしてしいる。

「――これはお二人。いやはや、とんだ醜態を晒してしまったようだ」

 透非は頭を抱えながら、気恥しそうに口から煙を吐き出した。
 鼻をつく匂いが周囲に散漫していたが、咳き込むほどの酷さはなかった。  
 品のある、草花が発するかのような、どことなくお香に似た匂いが辺りを包んでいる。

「眠れないのであれば話し相手にもなろう。だが、煙草をくゆらせていることは、藻美もみには内密にしてもらえると有り難い」
「それは良いですけど、何かわけが?」

 いい歳の男が煙管を吸っていても、特に責められることはないだろうが、 
透非は自分でそれが許せないとばかりに表情を曇らせる。

「少しばかり、楽に聞いてもらいたい」

 透非は庭に生える枯れた木を、ぼんやりと眺める。
 娘のいないこの場で、ぽつりと身の上話を始めた。

「八年前まで、儂と藻美はこの町から離れた村で暮らしていたのだ。だが、腐土の権現ふどのごんげんに襲われ、故郷は失われてしまった。その折に家内と死別し、多くの顔見知りもこの世を去った」

 逸流たちは相槌を打たず、そっと話に聞き入った。

「儂は神を信仰する身でありながら、何もできなかった己の無力を嘆いた。自分に力があれば、皆を守れたのではないかと、悔恨が未だこの胸の奥で燻っている。独学で槍を学び始めたのは、そのような経緯があってからだ。そうしてこの町に流れ着いた儂は、二度と何も奪わせまいと、防壁を築くように町の者と連携した。そして腐土の権現から藻美たちを守った。周囲からはその功績を讃えられて家も富も与えられ、子供たちには道場の真似事までする次第となった」

 自らにできることを積み重ねた結果、辿り着いた場所で透非は気づいたのだ。

「けれど、儂の心が奥底より満たされることはなかった。再び悟りの道に救いを求めても、家内あれを失ったときから、儂の胸には大きな穴が空いたままなのだ……そんな日々の中で、いつの間にやら、このようなもの手を染めていたのは何とも見苦しい限り」

 透非は煙管を逸流たちに見せて、ため息交じりに身をやつした。

「それでも、儂には他にすがるものもなく、昔から妙に舌が肥えたことも拍車をかけた。この味覚に合ったものを突き詰め、町の片隅に畑までこしらえてしまったのだ。笑えてしまうだろう? まだ娘が残されているというのに、儂はこの悲惨な浮世から脱したく、夜な夜なつまらぬ逃避行に繰り返し耽っているのだから」
「笑えませんよ……きっと、誰も」

 父である前に、一人の人間である男の吐露。
 透非は思いを馳せるように空を見上げた。短く吹かれる白い煙は、天に届く前に消えていく。そこに乗せられる想いはどこに向かっていくのだろうか。寂寥ばかりが月夜の晩を映し出していた。

「……ぬしよ」

 不意に、稲が逸流を呼んだ。
 彼女は塀の近くに植わる古びた木を見やり、そこに歩み寄りながら逸流を手招きする。

「この木に触れてみよ」
「別に良いけど、どうして?」

 疑問を抱きつつ、逸流は稲の言った通り枯れた大木に掌をあてがった。

「……昔は葉の一つも芽吹かせていたのだろう。されど、儂がこの屋敷を宛がわれてから、一度たりともその松の木が実った姿を見たことがない」

 透非は古木の説明をしながら、逸流と稲の様子を見守る。
 そのとき、幹に触れる逸流の上に稲が自らの手を重ねてきた。
 一瞬、どきりと身体が跳ねるが、はたと不思議な温もりが逸流の体内に満ち溢れてくる。
 稲に触れられたせいというだけではなく、まるで最初から有していたかのような、内より沸き起こる激しい生命の息吹。
 逸流は、この感覚の正体を口にした。

「まさか……季力……」
「しかと刮目せよ。これが、ぬしの撒くべき種の欠片だ」

 稲の扇動によって、逸流の身体から季力が放出された。
 古びた松の木に、その一部が取り込まれていく。

「おお……っ」

 透非は双眸を見開き、その光景を目の当たりにした。
 枯れ果てた大木に訪れる変化。
 力なく伸びていた枝が徐々に活気を取り戻し、脈絡を巡る輝きが全体を発光させる。松特有の鋭い葉が枝から緑を色付かせ、いつしかそこには堂々たる大樹の姿が蘇った。

「これは、よもや神の御業か」

 眼前で引き起こされる一種の奇跡に、透非は目を奪われる。季力を流し込んだ逸流でさえも、感想を漏らす余裕もなく唖然としていた。
 この場で唯一冷静だった稲だけが、最初の発言を許される。

「こやつは留包国るほうこくより失われし、季力を持つ無二の存在だ。もしそなたが、切に平和を願うのであれば、この者に懸けてみる気はないか?」
「儂が、逸流殿に……?」

 問われた透非は、いたいけな少女の姿を直視する。
 そこに見えるものの本質を、彼は知らない。
 その言葉に、どれほどの重みが存在するかを推し測る術も持たないのに、透非の受け答えが滞ることはなかった。

「久しく酒も飲んでいないが、これほど愉快な気持ちになれるとはな。いやはや、このような枯れた男に再び花を咲かせろとのたまう心意気。一蹴するにはあまりにも筋が通っている。なにせ、たった今目の前で死んだ松に、芽吹きをもたらしたのだから」

 呵々、と透非には満面の笑顔が満ちていた。

「あい分かった。儂も懸けよう。この淀んだ浮世に光明を指す、そんな存在に貴殿らが成り得るかもしれないと、願いを込めて」

 透非は逸流と稲を信じ、そこに自らの想いを託した。
 このやり取りに、特別な意味などきっとないだろう。
 しかし心だけでも味方してくれる相手がいる。それだけで人間はやる気が満ちてくるものだ。単純かもしれないが、少なくとも逸流の胸は、温かな気持ちが染み渡った。

「さて、儂はそろそろ眠るとしよう。貴殿らも、あまり夜をふかしすぎないように――」

 透非が二人に呼びかけた、そのとき。
 宵の静寂を切り裂くように、ひと際甲高く鳴り響く鐘の音があった。

警鐘の音けいしょうのね!」

 透非の顔つきが変わった。
 険しく彫りを深める表情が、事態の深刻さを十二分に物語る。

「――透非殿!」

 外から、透非の名を叫ぶ男の声。
 それだけで、これが非常時であることを伺わせる。
 準備に取りかかろうと家に引き返す透非と、警鐘に叩き起こされた藻美が家の中で叫ぶ。

「おっ父! 腐土の権現が出たのか!」
「分からぬ。とかく、儂は他の者と町の外を見る。お前は家で大人しくしていろ」
「いいや、おれも行くぞ。もし腐土の権現が来たのなら、おっ父に教わった槍でぶち殺してやるんだ!」
「藻美、滅多なことを言うな。お前に槍を教えたのは、万が一に際した自衛のため。死地に向かわせるためのものではない」
「何だいそれ! おれはもう、泣いてるだけの子供じゃねんだぞ!」
「事は急を要しているのだ。問答に費やす暇はないと理解しろ」

 屋内で言い争いが聞こえるが、透非は槍を持ち出すとすぐに家を飛び出した。まだ大声を出していた藻美は、中庭の気配に気づいたのか縁側を覗く。
 そこで逸流と稲を見つけると、愚痴を零すように言い募った。

「お兄たちも旅してたんなら分かんだろ? 腐土の権現にいくつもの村が潰されてんだ。おれが前に住んでたとこも奴らにやられたし、この町まで失うわけにゃいかねえんだよ。おっ父がなんと言おうとおれは行くぜ。止めてくれるなよ!」

 引き留める間もないほどすばしっこく、藻美も本物の槍を持って外に向かう。残されてしまった逸流は、稲と顔を見合わせると今の気持ちを伝えた。

「僕たちも行こう。あの子のことが心配だし、黙って見てられない」
「……路傍にえにしを繋いだとて、その果てに待つは……」

 稲は何か言いたげに、細々と呟いてから声を張った。

「まあよい。ぬしの好きにしてみよ」

 ひとまず逸流は稲とともに町に繰り出し、騒ぎの元となっている場所に足を急いだ。

【続】


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