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あくびの隨に 18話

前回

 入り組んだ道なりを、二人は無我夢中で走り抜けていた。
 すぐ背後まで迫る浪人から逃れるため、十字路が見えればすぐに曲がり、大通りに出れば再び適当な路地へと侵入する。追手を撒くのに必死で道順は適当を極めていたが、逸流いつるは持ち前の直感から袋小路を避けていた。
 しかし走れば走るだけ体力は損なわれ、額からは汗が流れ出す。

 刀をぶら下げている分、相手の方が消耗は激しかったが、意地でも逃がすまいという気概が執念に変わっていた。どれだけ逸流といねが距離を引き剥がそうと、男たちは裏道を回って先回りしてしまう。こればかりは、土地勘のある敵が有利だった。

「――挟み撃ちござる!」

 あるとき、背後を着いていた恰幅の良い男が叫んだ。
 それを耳にして逸流が振り返ると、いつの間にか小柄な男の姿がない。嫌な予感に正面を見ると、通りを間近に控えたところで飛び出してくる影。
 先回りした小柄な男が、息を切らせつつ刀を抜いて道を塞いでくる。
 挟まれる形となった逸流と稲は、路地の中ほどで足を止めざるを得なかった。

「はぁ、はぁ……まずいな、これ」

 逸流は肩で息をしながら、絶体絶命の窮地に思考を巡らせる。
 そんな折に、稲からもたらされる謝罪。

「……すまぬな」
「稲が謝ることないよ。僕がもっと上手く逃げられれば、こんなことには――」
「私の殴蹴には、誓約がかけられておる」
「え?」

 はたとして、稲は今まで語ることのなかった己の誓約について触れる。

「先手必勝という言葉に反対の意があるならば、それはきっと後手偶勝。私は敵から殺意の籠った一撃を受けぬ限り、手を出すことができぬ身だ」
「それって……あのとき」

 初めて彼女と会った際、稲は腐土の権現ふどのごんげんの初撃を全て回避しなかった。
 それは反応できなかったからではない。
 そうしなければ、反撃することができない呪縛を負っていたのである。

 稲の話をよそに、浪人風の二人は野蛮な脅しを募らせる。

「女をこっちに寄越せ。野郎は金さえあれば、苦しまさずに介錯してやる」
「さあさ、観念のとき。お天道様の見納めでござるよ」

 白刃を手に、彼らはこちらに選択肢を与えない。
 逸流は稲を背中に庇って壁側に押しやる。万が一のときは、この身を盾にしてでも稲を逃がしたい。
 しかしその考えは、彼女からすればまったくの逆だった。
 逸流の裾を掴みながら、稲は小声で耳打ちする。

「……私が刀で斬られれば、この場の収拾はつけられる」
「何言ってんだ、そんなことさせられるわけないだろ」

 乱暴な提案を、逸流は即座に却下する。
 しかし他に方法はないと、稲もこの場は譲らなかった。

「ぬしには種を撒いてもらわねば困るのだ。私が手傷を負おうと、流動する時間は滞らぬが、ぬしに万が一のことがあれば望みは断たれる。ここは大人しく私に任せておけ」
「ふざけるな。君がたとえ何者だろうと、女の子に怪我なんてさせられるか」

 逸流はいつになく声を荒げ、己の不甲斐なさを叱責した。

 そう、こんな窮地を切り抜けられないのは、逸流が足手纏いだからである。おそらく稲一人なら、難なく追手を撒くこともできたはずだ。
 現に街中を走り回ったにもかかわらず、稲の呼吸は一切乱れていない。
 肩を上下させ、疲れているのは逸流だけだった。

「何か、手はあるはずだ。僕が……稲を守らないと……」

 焦燥を募らせながら、逸流は己が頼れるものを総動員させる。
 腕力は並みだが、武器を持った相手には何の役にも立たない。
 ならば経験、知識、思考、そして直観力――頼れるものは、藁にでもすがりたい気分であったが、この僅かな間にあっと驚く奇策などは思いつかなかった。

 もっと他に。
 
 自分の奥底にある。

 別の何かを――

「   」

 ――そのとき、稲の声が耳を打った。

「ぬしよ! 呑み込まれるな!」
「……え?」

 ハッとして周囲を見渡すと、浪人風の二人が稲の大声に目を丸くさせていた。
 逸流が深く考え込んでいたので、稲が注意してくれたのだろうか。
 どちらにせよ、この状況をどうにかするには、二人だけではどうしようもなかった。

 そんなときに、逸流は予想外の声を聞くこととなる。

「――おっ! 腐土の権現が飛んでやがるぜ!」
『は?』

 唐突に上がった声に釣られ、男たち二人は同時に空を見上げた。
 そのとき、長屋の屋根から恰幅の良い男めがけて、落ちてくる謎の飛翔物体があった。
 先ほどの言葉もあり、男は真に受けたように慌てふためく。頭上から降ってくるもの目がけて、闇雲に勢いよく刀を振るった。
 斬、と見事に一刀両断されたのは土塊――ではなく、すげ笠。

「ははっ! とんだ間抜けもいたもんだ!」

 ざっ、と恰幅の良い男の背後に回り込む小さな陰影。笠を上空に放り投げた人物は、眼前の男の履く袴の間に、素早く右足を差し込んだ。
 そしてつま先を頂点とするように、下駄を履いた足を勢いよく蹴り上げる。

「がっ――」
 
 股間に食い込む下駄の先が、男の表情に苦悶を生み出した。
 刀を取り落とし、股を抑えて地面に蹲る恰幅の良い男は再起不能。これを間近で目撃してしまった逸流は、背筋にぞっと寒気を覚える。

「あれは、酷い」
「……あやつは、増援と認識すればよいのか?」

 稲は逸流の背後からひょこっと顔を出し、男の急所を抉った人物を見やる。
 そこにいたのは、男勝りにぼろ切れを気崩した少女。
 一度、逸流のことをかつあげしようとした、不良娘の数良かずらであった。

「てめっ、横丁乞いの糞餓鬼か!」

 小柄な男は数良を知ったような口ぶりで、刀を握る力を籠める。

「へぇ。おのれは、自分のこと知ってんの?」
「けっ。その太々しい面、人相書の通りだな。貧相ななりで男にすり寄り、ありったけの金を巻き上げる乞食もどき。悪知恵で桐之邸のしのぎを荒らすような盗人は、見過ごすなってお達しが出回ってんのよ」
「そいつはご苦労なこって。けど、おのれらみてぇなへちま野郎に、自分が捕まえられっと、本気で思ってやがんのか?」
「なあに、安心しとけ。別段――生死は問われてねえのさ!」

 男は刀を両手持ちに変え、数良に向けて鋭く踏み込んだ。
 溢れ出る殺気を肌で感じ取り、逸流は危険を覚えて男の疾駆を止めに入ろうとする。
 しかし直前で稲に腕を引かれた。

「あの娘ならば問題あるまい」
「いや、でも」

 稲の制止の合間にも、場面は動く。
 数良は肉薄する凶刃に物怖じせず、ふとして足元に意識を向けた。そこには未だに苦痛で身悶えする男がおり、これを視界に収めながら不敵に笑みを零す。

「おのれの仲間だろ? ほれ、もってけよ!」

 無造作に手を伸ばし、数良は蹲る男の背中を掴んだ。
 恰幅の良い男と彼女とでは、倍以上の体重差があるだろう。それを数良は物ともせずに片手で放り投げた。あわや味方を切り殺しかけた小柄な男は、刀の峰を突き出して向かってくる巨漢を受け止めようとする。
 だが速度の乗った重さに成す術もなく、男たちは重なり合ってその場に倒れた。

「おい、にぃにとねぇね! ぼさっとしてねぇで、ささっとずらかんぞ!」

 彼らが藻掻いている内に、数良は先導するように先を走って行く。
 逸流はこれを信じ、再び稲の手を取ってこの場を離れた。

【続】


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